これがリライトの鉄則であることは、論を待たない。
しかし、何が足りなくて何が詰まらないかを、
見極めることは大変困難である。
それは結局、
ちまたにある映画やストーリーを、
面白いか詰まらないかを判断できるか、
ということと同一である。
自分のストーリーの過不足や面白い詰まらないは判断できるが、
世の中の他のものは判断できない、
というのはありえない。
逆もしかり。
いや、逆の場合は、まだ未熟な者にはよくある、
「自分のやったこと可愛さで、
判断の目が曇る」という現象がある。
他人には厳しくできて自分には甘いというやつだ。
これをフラットな目にもっていくのはなかなかに難しく、
執着を取っていくことは禅の達人にしか出来ないかもしれない。
ぼくのオススメの方法論は、
相変わらず数を書くことで、
一本しか書いたことのない人より、
一万本書いた人の方が、
ひとつのストーリーをフラットな目で見れる、
という経験則に基づいている。
(一本しかないオリジナルを、
後生大事にしないということだ)
で。
仮に、世の中のストーリーと自分の書いたものを、
等価に見て、
あれが足りないここが面白くない、
あれはこうするべきだとフラットに捉えられるとしたら、
それは世の中のストーリーとあなたのストーリーを、
作者を区別せずに見れているということである。
つまり、世の中の全てのいまいちなストーリーは、
リライトの対象になる、
ということになる。
つまり、映画を見ながら、
足りないと思えば足して、
詰まらない部分は捨てて、
リライトのアイデアを常に考えらろ、
ということになるわけだ。
もちろん、自分の出来るストーリーテリングには限界があって、
毎回同じように直してしまう癖もあるかもしれない。
だから、「他人がどのように直すのか」
ということに出会いたくて、
僕は今映画を見ている状態かもしれない。
なるほどね、こう来たのね、それはいい発想だ、
ということをいつも考えたりしている。
それはつまり、将棋指しが他人の対局を見るようなものかもしれない。
自分の対局だろうが他人の対局だろうが、
「それはそうしたほうがいい」と思うのは同じということになる、
なかなかその領域にいくことは難しい。
自分の作品だけは見えなくなる。
しかし時間を置くと、出来不出来はわりと素直に見れてくる。
先日一年前に書いたプロットを直していたのだが、
足りねえなと思い、主人公を二人に変更することにした。
まあ大改造である。
しかし元のものに比べて、
禍々しく面白くなったと考えている。
(また一年後はどう見えるかわからないが)
数を書け。
そうすれば自動的に時間を置くことになる。
数を見ろ。
そうすれば大体何が不足していて何が詰まらないかを判断できるようになる。
やりちんが「女は大体わかったよ」というくらい、
あなたは「ストーリーは大体わかったよ」
と言えるようになるべきだ。
そこまで出来て、ようやく、
過不足や面白い詰まらないが、
判断できるようになっていく。
そこからどう直すかは、
あなたがどれだけそのストーリーに、
ビビッドであれるかで決まると思うよ。
2018年02月12日
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