2018年02月14日

なぜ登場人物を増やすのか

安易に増やしてはいけない。
それには、確固たる理由が必要だ。


そもそも、リライトをするときに、
「登場人物を整理できないか?」
というのは、真っ先に上がる議題である。

誰かと誰かの役割を同じにしてしまえば、
登場人物を減らして、ストーリーを整理できると。

つまりそれは、整理しなければならないほど、
登場人物が増えてしまっているということ。
端的に言うと、
「話がごちゃごちゃしている」ということだ。

これがよくあることということは、
作者は登場人物を増やしがちだということだ。

何故こういうことが起こるかは、
実感としてあると思う。
現状の人物関係だけでは煮詰まってしまい、
新しい展開を起こしにくくなり、
新風を吹き込みたくて、
という、いわば逃げの手で登場人物を安易に増やしてしまうことが、
ままあるのではないか。、

実際のところ、与えられたカードだけで工夫した方が、
必ず面白くなるのに、
私たちはついつい他のカードを混ぜたくなる。
他力本願なんだと思う。
自力解決の辛さから、逃げたいんだよね。
(この最たるものが、
オールマイティな神様を登場させて解決してしまう、
デウスエクスマキナだ)


で。

逆にいうと、
登場人物を増やすときには、
それ以外の真っ当な理由があるべきだ。
それは何かということ。

僕は、「本題を多角的に捉えるため」だと考えている。

相変わらずガンダムを例にとると、
ガンダムが新しかったのは、
それまで味方側だけで行われていた人間ドラマを、
敵方にも拡張したことだ。
つまり、敵方にも、登場人物を増やしたことである。
シャア、ラル、ハモン、ガルマ、イセリナ、
ララァあたりだろうね。

従来のロボット戦争ものの枠組みが、
味方対悪の組織であったものを、
「戦争は正義と悪の戦いではなく、
国家と国家のものであり、
悪人と正義人が戦っているのではない」
という多角的視点を導入した点が良かったわけだ。

そもそも十五少年漂流記をモチーフとしているから、
本来はホワイトベース内だけで話が進んでも良かった筈だ。
(漂流教室とかね)
しかしそれだけで終わらなかったのがガンダムの新しかったところ。
何のために登場人物を増やしたのか。
戦争における、多角的な視点を持ち、
「戦争は一筋縄でくくれる現象ではない」
を示すためである。

向こうには向こうの事情があり、
こっちにはこっちの事情がある。
それが戦争なんだというテーマである。


あなたの扱うテーマは、分かりやすい一本か?
それとも複雑なことか?
分かりやすくするためには、
登場人物を限定し、テーマを一面から見て話を進めると良い。
そのテーマに不要な人物は削除しても影響はないだろう。

逆に、そのテーマは、
多角的に見たほうがより面白くなるなら、
そのテーマの多面性を切り取り、
登場人物にそれぞれを担当させると良いだろう。

ガンダムにおける、
アムロ脱走とラルの出会いはまさにそういうもので、
ワガママな少年兵と、生活のためのオッサン傭兵という、
新旧の対比をつくり、
戦争に参加する複雑な人間関係を見せた。
その後の直接対決で、コクピットが切り裂かれて、
目が合うところが最高だ。

つまり、サブプロットは、対比のためにある。

ある問題をどちらから見るか、という対比になるわけだ。


多角的な問題の見方は、
つまりその問題をどちらから眺めるかという視点の差であり、
その視点の差をビビッドに描くには、
対比させるのが最もよいやり方だ。

ガンダムの場面に戻れば、
ビームライフルを残弾が少ないから捨てるガンダムに対して、
「ほほう、思い切りのいいパイロットだな」
とラルが評価する場面が、実にいい伏線になっている。
戦争は大人同士のものだと思い込んでいるラルが、
切り裂かれたコクピットの中にアムロがいることを知るショックに、
直接関係しているわけである。

戦争に参加するのは、
戦争を生業とする者もいれば、
少年兵もいて、
それぞれの人生が交錯してしまうのが戦争である、
という生々しさを、実にうまく切り取っている。
愛人ハモンを戦場に連れてきているのが、
実に大人だと昔は感じたが、
今考えるとキャバ嬢を会社に連れてくる部長だよな。笑


逆に、ランバラルのパートを丸々なくすとどうなるだろう。
敵方はシャアとガルマ程度になり、
実に薄っぺらい敵対味方の構図にしかならないはずだ。
もちろんククルスドアンの島やら、
アムロの母との再会や、
ミハルの死など、
複眼的で重層的ドラマにはなるが、
「敵にも(少年たちとは全く違った)人生がある」
ということは描けなかった可能性が高い。

ランバラルのサブプロットは、
シャア復活までの場つなぎのようではあるが、
これはこれで、テーマの多面性を描く役に立っている。
ラルがなければ、
戦争は敵味方の対決にしか見えなかっただろう。
つまり、テーマが浅く見えていたはずだ。


あなたが扱うテーマは、
そのような深いものか、
それとも浅いものか?

浅いものがよくないわけではない。
浅いものは、キレがある。
深いものは淀みがちで、本格的に立ち向かわないとカオスになる。

(たとえば不老不死をモチーフに据えたファイアパンチは、
それを全く物語の中心テーマに据えず、
ぐだぐだのまま終わってしまった。
不老不死も炎のパンチもネタにすぎず、
「嘘または演技」という全く関係ないものが、
どうやらテーマになりかけていたようだ。
もしそれがテーマになるなら、
不老不死と炎のパンチは取り除いても構わないはずだ)


なるほど、よく考えられている、
この対比はこの問題を、裏と表から見ているのだな?

とならない限りは、
登場人物を増やしてもカオスになるだけだ。

登場人物を増やすのはコンフリクトを増やすためである。
それらが直接対決しなければ、
増やす意味はない。
なぜなら、問題が増えていないということだ。



問題を増やしてややこしくなるのか?
問題を増やしてテーマがより鮮やかになるのか?

登場人物を増やすときには、
そこまで考えて役割を与えるべきだ。

そうしないと、ただ出ただけの出落ち祭りにしかならなくて、
これ意味あったん?になるだけだ。


そのテーマにふさわしい多角的視点は、
一体いくつあるのか?
3か?5か?
それを見極めるのが先決で、
キャラクターを思いついて増やしても、
ただのAKBビジネスだぜ。
posted by おおおかとしひこ at 14:12| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。