2018年02月15日

サブプロットはバイパスか

登場人物が増えると、
サブプロットがそれだけ増えることになる。


サブプロットを持たない登場人物は、
登場人物に含まれない。

逆に、登場人物の資格は、
目的をもち、主体的に行動する人物のことである。


主人公だけが目的があって、
他の人物が目的がないのは、物語ではない。
その場合、他の人物は人間ではなくただの置物だ。
人間に見えるロボットに過ぎず、いてもいなくても同じである。
(ビジュアル上の出演にすぎない)

人間、すくなくとも物語に登場する人間には、
目的がある。
主人公一人だけの場合は独り言の物語になり、
これはメアリースーになるだろう。
自分勝手を実現するだけの段取りを、時系列に記録するだけである。

そうではなく、
物語というのは、
複数の目的がある、複数の人間同士が、
矛盾する様を描く。


その目的が相いれない時に、
彼らはどうするか、最終的にどうなるか、
を描くものである。


主人公しか目的がないものは、
一人称の物語でしかなく、それは物語ではなくオナニーだ。
オナニーでない客観的な物語とは、
つまりは複数の視点、
複数の目的が存在するということである。
だから物語は三人称なのだ。

その中でなぜ主人公だけが、
特別な存在を与えられているのだろうか?

それは、落ちからの逆算だ。

最終的に物事の解決をするのが、
主人公だからだ。


つまり物語とは、
複数の人が関わるもめ事を、
解決する人の視点を中心に描写するのである。

ある事件の起こりから解決までを、
どの関わる人物からの視点でも見ることは可能である。
あるいは第三者的な視点も可能だろう。

しかしその中で、解決の中心的役割を果たした人の視点から、
問題解決の様を見せていくのが、
「三人称の物語」の隠れた常識だ。

このことを忘れている、
または知らない人が書いたストーリーは、
一体どこからこれを見詰めているのか、
主体がなくなってしまい、確実に散漫な物語になる。
「神の視点」とかいうけど、
じゃあシムシティみたいでいいやんとなってしまい、
どこにフォーカスしなくてもよくなってしまう。
我々はアリの巣の観察者であるが、
どのアリにも注目しないなら、飽きてしまうだろう。
物語とは、「どのフォーカス点なのか」ということなのだ。



で、本題。

登場人物を増やしていくと、
それぞれの目的がバラバラになってしまい、
収集がつかなくなることがある。

だから、それぞれの目的を整理する。
具体的には、
ある人物の目的と、もう一人の人物の目的が、
大体一緒であることを互いに確認させ、
一緒の船に乗らせる。
つまり、協力体勢にする。

勿論、呉越同舟のようなシチュエーションでも構わない。
いまは目的は同じだが、という緊張感もよいものだ。

(呉越同舟のようなものばかりではなく、
夫婦ものや、家族ものすら、そのように描くことが出来る。
カップルの喧嘩別れだって、そのようなものである)


登場人物のサブプロット(目的と行動)がどんどん増えていくことによって、
話は豊かにもなるし、
複雑にもなる。

このさじ加減を、主人公にフォーカスしながらも、
どこまで豊かに出来るかが、
作者の手腕というものだ。


で、サブプロットはなんのためにあるかというと、
テーマをよりくっきりさせるためだ、
というのが前々記事の趣旨だ。

今回は、
それをバイパスに使いがちだという話。


主人公が正面から問題解決に取り組んでいるとき、
どうしてもぶち破れない壁に当たるときがある。
なかなか方法がわからないので、
別の人物とのサブプロットを進めていくと、
そっちにヒントがあり、
それが元でメインの問題が前進するという場面が、
よくあると思う。

つまり、
サブプロットがメインプロットのバイパスとして機能する場合である。
メインの解決が困難だから、
サブプロットでショートカットする感じだ。

脱童貞を目指す主人公が、
ヒロインに恋しているときに、
やりまんとやってしまい、脱童貞する、
というパターンはこれだ。

わざとがっかりするような例をだしてみた。
「それは安易やろ」
となってしまう。

つまり、ショートカットするときは、
納得のいくようにしなければならない、
ということを言おうとしている。

メインプロットがご都合で解決できないと分かっていても、
サブプロットでご都合をしてしまう例は、
案外多い。
それは、
メインプロットの解決が困難であればあるほど、
サブプロットでショートカットしてしまいたくなる、
という我々の心理があるということだ。

これは自覚して戒めなくてはならない。



最初に戻ると、
サブプロットとは、
別の人物の目的のストーリーである。
主人公とその人物の目的が違うことによって、
起こるサブストーリーだ。

ショートカットしてバイパスに使いたくなると、
そのサブ人物が都合のよい人物になってしまう。

先の例でいうと、
「すぐやらせてくれる女」ということである。

そのご都合を用意しないようにしよう。
その女にも人格があり、
その女にも別の目的がある。
もし二人がセックスに合意するのであれば、
その女の目的が、その行為で果たされるときである。
つまり、それがなんらかの取引であるときだけだ。


取引、という考え方は、
外人の考え方だ。
契約と取引は、我々の感覚では違う感じだが、
同じdealの範疇である。
さらに、扱うくらいの意味にもなるし、
銀行家もギャンブルの元締めもdealerである。
つまり、あらゆることを、
口約束や書類などで、約束するということだ。

物語の場合は、たいていが口約束だろう。
そのことで、
複数の目的が違う人が合意し、
なんらかの行動をするのが、
物語の原動力であるといえる。
(あるいは合意せず、反発して決裂するのも物語である)

だから、
目的の背景をしめしたり、
目的を確認したり、
それを状況に応じてアレンジしたり、
譲れないことがあることが発覚するのは、
物語でもっともよくある場面である、
ということが出来る。


英語は、その交渉力に優れた言語である。
日本語は交渉しない。
以心伝心で、
なんとなくその場での立ち居振る舞いを決める
(空気を読む)。

どっちの方法論でも構わない。
ただ、目的が違う人が呉越同舟になっていることが肝心で、
安易なバイパスの為にこれがあるのではない、
ということが肝心だ。

じゃあ、どうしていくと問題の解決に近づいて行くのだろうか?

安易なショートカットにしなければいい。
サブ人物の物語をきちんと作って、
彼または彼女の目的遂行が、
主人公の目的遂行と、どうかかわってくるかを、
きちんと描くとよい。

ただのやらせてくれる女にせずに、
金銭を要求してくるとか、
それがスキャンダルになると知ってはめようとしているとか、
そのプラスに対してマイナス部分を用意するとよい。
甘い話には裏があるようにするといいわけだ。

ということはこの女の目的はなにか?
ということが浮き彫りになり、
単純に都合のいいバイパスになることを、
避けやすいと思う。


さらに俯瞰で見たときに、
このサブプロットが本来のテーマと
どう関わってくるかのポジショニングができてないと、
このサブプロットいる?という議論ができるだろう。



単に都合のよい展開にするサブプロットはいらない。
「それがある意味」がわからないと、意味はない。
(わかる時点は、鑑賞最中でもよいし、
最終的にそういう意味があったんだなあとあとあとわかるのでもよい)


登場人物を増やすときに、
ここまで考えていないと、
増やすことは単なる目そらしの出オチになるだろう。

まあ、そもそもメインプロットの解決がつまらないから、
サブプロットでごまかす、というのが、
安易でよくあるサブプロットの使われ方だ。
(たとえば浦沢直樹の漫画は単なる目くらましでしか、
サブプロットを使っていない)
posted by おおおかとしひこ at 18:31| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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