ブラインドタッチをマスターしようとする人が、
誤解してることがひとつある。
「ひとつの音がひとつのキーに対応してるから、
その対応を覚えたらおわり」だと考えていることだ。
つまり、一対一対応の暗記だと思っていること。
たとえば世界史の年号のように。
これは誤りである。
ブラインドタッチは、「一連のキーの流れ」で覚える。
たとえば、「わたし」という言葉をブラインドタッチで打つことを考えよう。
カナ入力なら3タイプ、ローマ字なら6タイプするだろう。
(僕は昔「し」を「shi」の発音通りに入力してたので、7タイプしていた)
しかしブラインドタッチでは、
これを1タイプのように考える。
どういうことか。
「わたし」という概念は、3文字で成り立ってはいるが、
複合語ではなく、ひとつの概念である。
「自分を示す言葉」というひとつだ。
英語の方がわかりやすいか。
私という一概念をたった1アルファベットの「I」で示す。
「一概念一音」の原則の中国語では、「我」一文字だ。
つまり、自分という概念はひとつであることを、
英語や中国語では文字ででも対応している。
(ちなみに日本語の一人称の歴史では、
平安時代以前は「わ」一音であったそうだ。
漢字で書くと「吾」らしい。
魏の使者がお前らは誰だと聞いた時、
当時の日本人は「わ」と答えて、
わ族となったのではないかと推理ができる。
わの国とは平和ではなく、わたし(たち)の国の意味だ。
この鳥はなんだと答え、「ドードー(知らない)」
と答えた鳥がドードー鳥と呼ばれたのと同じかもしれない。
最近では平昌オリンピックの「モルゲッソヨ」だね。
知らない人の為に書いておくと、
会場のヘンテコなオブジェがおもしろくて、
なんだあれと会場の人に聞いたら「知らない(モルゲッソヨ)」
と答えて、モルゲッソヨという名前だと勘違いされた珍事)
で、当然わたしたちは、
「わたし」を「わ」+「た」+「し」の3つの合成語とは考えてなくて、
「わたし」というひとつの言葉だと考えている。
これはタイピングでも同じで、
「わたし」というひとつの概念を、ひとつの動作で打つのである。
一概念を一連の音であることと、一連の指の動きが対応している。
具体的に言うと、
qwertyローマ字では、
左薬指上段→左小指中段→左人差し指上段伸ばし
→左小指中段→左薬指中段→右中指上段
という指の動きを、一連で覚える。
波動拳が236Pみたいなことである。
「わたし」という一概念に対して、
こういう新しい動きの言語が対応している、
という覚え方をする。
「わたし」という一概念の言葉を言う時に、
「わ」+「た」+「し」と三つに区切って発音しないのと一緒だ。
勿論、外国人が始めて学んだ日本語を発音する時や、
初めて覚える言葉を発音するとき、
たとえば「ゾルタクスゼイアン」という言葉を覚えたときなどは、
一音一音区切って言うだろう。
しかし使い慣れてくるとそれは一連で言うことになる。
上京した人が、渋谷で乗り換え銀座線で銀座、
などと最初は一つ一つ覚えるが、
「渋谷経由銀座」「銀座まで」などと次第にひとつの概念になってくるのと、
同じである。
最初は駅一つ一つを暗記するかも知れないが、
慣れてくると「ルートが自動化される」ようになるはずだ。
これがブラインドタッチなのだ。
初心者のブラインドタッチの誤解は、
「わたし」を「わ」と「た」と「し」で覚えようとすることである。
勿論、
初期の頃は覚える事で必死だから、最初はしょうがない。
しかしほんとうのブラインドタッチとは、
「わたし」を自動化されたルートで打つことに他ならない。
さらに言うと、
「わたしはラーメンが食べたい」とか、
「わたしの萌えポイントにぐさりと刺さる」
などの一連くらいは、自動化されたルートで打つようになる。
つまり、自動化されたルートは、
莫大な組み合わせがある。
20音覚えれば良い(ローマ字)とか、
50音覚えれば良い(カナ入力)とか、
80音覚えれば良い(清濁別置カナ入力)とか、
そういう一対一対応の暗記の問題ではない。
事実、どんなにブラインドタッチをマスターした人でも、
「○のキーの右隣には何がある?」と聞いても、
咄嗟に答えることは出来ない。
銀座に向かう時に、渋谷の反対側の駅は原宿だが、
意識の中にないのと同じだ。
すべては、「ことばの概念」と対応した、
「指の一連の自動化ルート」で覚えている。
それがブラインドタッチ出来る、
ということである。
目を使わないとはこういうことで、
だから僕は「ブラインド」の言葉を使用している。
これはピアノも同じかもしれない。
ピアノの場合は三つ先は三つ高い音、
と規則性があるからそんなこと考えなくてもよいが、
キー配列の場合は、不規則だから規則性が使えないだけの違いだ。
勿論、我々の言語が人工的に規則正しいならば、
規則的なキー配列になったかも知れないが、
言葉、概念、思考、思想、主張などというものは、
不規則であることが当たり前で、
だからカオス複雑系をとり、それが生命の本質であるわけだ。
(ちなみに発音と文字の関係を人工的につくったハングル語では、
キー配列が大変規則的で、
ほぼ完全左右交互打鍵でうてるようだ。
ちょっと羨ましいが、なんだか人工的で嫌な印象も同時に受ける。
わたしたち日本人が、左右対称に作ったイングリッシュガーデンに、
なんだか不気味さを覚えることに似ていると思う)
と、いうことで。
本質的に、ブラインドタッチとは、
規則的でない言葉に、
規則的でない一連のコマンドを対応させる、
ことを言う。
打ち慣れていない言葉は一音一音打つが、
それもそれまでの蓄積で合成できることが多く、
数回打てばもうひとつの一連になってゆく。
最終形のイメージはこんな感じだ。
多くのブラインドタッチ教習法では、
この最終イメージを最初に教えていない。
左小指に対応する音を覚えましょう、
なんて本質的でないことを教えるから、
「ブラインドタッチは難しい」という固定概念もつくし、
「一個一個全部暗記したらおしまい」なんて誤った概念がまかり通る。
ちなみに、「ひとつの配列を覚えたら前のが出来なくなる」
も間違いで、「複数の配列を使い分ける」ことも可能だ。
自転車に乗れるようになったから、
自動車に乗れなくなったということはない程度だ。
(ちなみに、ローマ字系とカナ系なら干渉せずに同居出来る、
というのが一般的。カナ系二つは難しいそうだ。
僕の経験でいうと、qwertyローマ字、ローマ字系ひとつ、カナ系ひとつの、
計三つを常用することは可能。似てない奴は共存しやすい。
勿論得意不得意のムラは出る)
この自動化されるべき一連の動きコマンドを、
「運指」という。
(運指は別の使われ方をされる場合もある。
「ある音とある指の対応」という一対一関係を運指ということもある。
僕はこれを「配指」と呼ぶことにして、
一連の動きを運指と呼んで区別している)
飛鳥配列と薙刀式は、
この運指に特に気を使っている配列である。
薙刀式でいうと、
「ある」「ない」「する」「こと」「して」「って」
「これ」「それ」「どれ」「まで」「たら」「なら」
などの基本的な言葉や、
漢字で頻出する「ょう」「ゅう」「たい」などが、
最も打ちやすいアルペジオ運指で打てるし、
基本的な言葉「した」「られる」「ので」「です」「ます」「った」「どう」や、
漢字で頻出する「かい」「かん」などが、
内側指(人差し指中指)を中心とした左右交互打鍵で素早く打てるようになっている。
僕がqwertyローマ字入力、JISカナ入力をクソだと評し、
親指シフト(ニコラ配列)を大したことないと言うのは、
この運指がめためただからである。
もっとも、
これらの配列は「運指」という概念がなかった時代に作られた可能性がある。
逆に、一対一対応でしかない配列に、
キーパンチャー達が運指を現場で発見してきた、
とも考えられる。
ひとつの概念を滑らかな運指で綴る。
概念から概念への繋ぎもスムーズな運指で繋ぎ、
一連の言葉がスムーズな運指で綴ること。
それがブラインドタッチの最終形であり、
それが出来るキー配列を選んだ方が良い。
(そういうキー配列かどうかは、
あなたが手書きや音声で一連で綴る代表的な言葉を、
10から50ほど打ってみることで調べられる。
それらがあなたの指のスイートスポットを外しているなら、
そのキー配列は少なくともあなたには不愉快である)
2018年02月18日
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