2018年02月21日

文章を書けない人は、構成が出来ないらしい

え?そうなん?


作文を教えるときに、
構成を考えさせて、そののちに書かせる、
という教え方が一般的だと思う。

でも小学生の頃はそうでなかったから、
そのままのやり方で書いている人も多いらしい。
つまり何かネタを見つけてがーっと書き始めて、
なんとかしようとする書き方のことである。
で、そういう人はネタを料理しきれずに、
尻切れとんぼで終わることが多いそうだ。

だから構成(最も単純なものは目次)
を先に作るように指導するのだという。
小論文書くときにもそう習った記憶がある。

もっとも、僕はがーっと書き始めて、
なんとかして落ちを見つけるタイプだったから、
ライブ感のある作文も得意だったけど。


あれ?
これ、ほとんど脚本界隈で書くこととおなじだね。

人間がすることだから、
小論文だろうが作文だろうが物語だろうが、
結局はこの二つに分類されるのかも知れない。

つまりは、事前に構成をつくるか、つくらないかである。


事前に構成をつくらないならば、
ネタとライブ感で書いていけるが、
最初の勢いがなくなったところで、
ネタ切れになり、尻切れとんぼの出落ちになる可能性が高い。
(短いやつなら落ちを見つけられることも多い)

事前に構成をつくるならば、
テーマを考えてそれに逆算して全体を作るという、
執筆から程遠い能力を磨かなくてはならなくなり、
それが出来たところでようやく書き始めると、
すらすら書けるが段取り的になる可能性もある。
教科書的であるが、型破りは難しい。

さて。どっちだ。


僕は、教科書通りはいつでも出来るように鍛えるべき、
という立場にたっている。
と同時に、破天荒なライブ感を取り入れても良いと考えている。
ちゃんと落ちれば、の話だけど。

教科書通りだが小さくまとまっているものと、
破天荒だが落ちていないものと、
どっちが価値があるかというと、
どっちもどんぐりの背比べだと考えている。

きちんと構成が練られ、
かつはみ出し部分があるものが、
最上であると考えていて、
それを競うのが新作を書くということだと考えている。

勿論、毎回毎回大成功はしない。
しかし教科書通りに落とせることは、
プロにとっては造作もないことで、
そこに至るためには、
何百本何千本もの、短編長編の、
習作の経験が必要であると考えている。

とにかく書けばいいのに、
若い奴はほんとに書いてない。
体力のあるうちにそれをやらないと、
辛くて逃げ出したくなるのは必至だ。


一日一プロットを一ヶ月やるだけで、
自分の脳がいかに大したことないかを知ることができる。
一日10プロットをやるだけで、
いかに蓄積がないかを知ることができる。
数本のリライトを数バージョンやるだけで、
自分がいかに技がないかを知ることができる。

そういう数の経験が、
教科書通りに落とせる力を生む。

結局構成を事前に作れるか作れないかは、
執筆経験が豊富かどうかによる。

それは、物語でも論文でも作文でも、
実は同じじゃないかなと考えている。


え?無計画のライブ感のファイアパンチ?
もう誰も覚えてないな。
posted by おおおかとしひこ at 00:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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