え?そうなん?
作文を教えるときに、
構成を考えさせて、そののちに書かせる、
という教え方が一般的だと思う。
でも小学生の頃はそうでなかったから、
そのままのやり方で書いている人も多いらしい。
つまり何かネタを見つけてがーっと書き始めて、
なんとかしようとする書き方のことである。
で、そういう人はネタを料理しきれずに、
尻切れとんぼで終わることが多いそうだ。
だから構成(最も単純なものは目次)
を先に作るように指導するのだという。
小論文書くときにもそう習った記憶がある。
もっとも、僕はがーっと書き始めて、
なんとかして落ちを見つけるタイプだったから、
ライブ感のある作文も得意だったけど。
あれ?
これ、ほとんど脚本界隈で書くこととおなじだね。
人間がすることだから、
小論文だろうが作文だろうが物語だろうが、
結局はこの二つに分類されるのかも知れない。
つまりは、事前に構成をつくるか、つくらないかである。
事前に構成をつくらないならば、
ネタとライブ感で書いていけるが、
最初の勢いがなくなったところで、
ネタ切れになり、尻切れとんぼの出落ちになる可能性が高い。
(短いやつなら落ちを見つけられることも多い)
事前に構成をつくるならば、
テーマを考えてそれに逆算して全体を作るという、
執筆から程遠い能力を磨かなくてはならなくなり、
それが出来たところでようやく書き始めると、
すらすら書けるが段取り的になる可能性もある。
教科書的であるが、型破りは難しい。
さて。どっちだ。
僕は、教科書通りはいつでも出来るように鍛えるべき、
という立場にたっている。
と同時に、破天荒なライブ感を取り入れても良いと考えている。
ちゃんと落ちれば、の話だけど。
教科書通りだが小さくまとまっているものと、
破天荒だが落ちていないものと、
どっちが価値があるかというと、
どっちもどんぐりの背比べだと考えている。
きちんと構成が練られ、
かつはみ出し部分があるものが、
最上であると考えていて、
それを競うのが新作を書くということだと考えている。
勿論、毎回毎回大成功はしない。
しかし教科書通りに落とせることは、
プロにとっては造作もないことで、
そこに至るためには、
何百本何千本もの、短編長編の、
習作の経験が必要であると考えている。
とにかく書けばいいのに、
若い奴はほんとに書いてない。
体力のあるうちにそれをやらないと、
辛くて逃げ出したくなるのは必至だ。
一日一プロットを一ヶ月やるだけで、
自分の脳がいかに大したことないかを知ることができる。
一日10プロットをやるだけで、
いかに蓄積がないかを知ることができる。
数本のリライトを数バージョンやるだけで、
自分がいかに技がないかを知ることができる。
そういう数の経験が、
教科書通りに落とせる力を生む。
結局構成を事前に作れるか作れないかは、
執筆経験が豊富かどうかによる。
それは、物語でも論文でも作文でも、
実は同じじゃないかなと考えている。
え?無計画のライブ感のファイアパンチ?
もう誰も覚えてないな。
2018年02月21日
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