簡単な目次を作る目的は、
全体を俯瞰することである。
全体が見えていれば、部分を全体と比較して考えることができる。
たとえばハッピーエンドになることがわかっていれば、
前半をどうしようもない絶望に落として、
その落差を駆け上がる面白さを作ることができる。
あるいはバッドエンドに終わることが決まっているならば、
幸福の絶頂を前半に作り、
そこから奈落の底に落とすことが可能だ。
最後に笑えるのなら、
その笑いより笑えるものを前半に持ってきてはだめだし、
最後に泣けるなら、
それより泣けるものが前半にあってはダメだ。
大落ちがマックスにならないからである。
端から順番に書いていく方式では、
その落差は計算ではなく偶然に左右される。
奇跡的に落差が生まれればよいが、
必ずそうなるわけではない。
一方、全体を先に作りさえすれば、
全体を調整して、
よりよくしていくことができる。
これが、構成を先にすることの目的である。
あるいは、矛盾の発見などにも役に立つ。
こういう解決に最後になるから、
今これをやるのはおかしい、
などのような矛盾を発見しやすくなる。
で、僕が最も先に目次を作るべきだと考えるのは、
「複数のバージョンを比較できる」ことではないかと考える。
どういう展開にするのか、迷うこともある。
どういう落ちがいいのか、迷うこともある。
もしこれが、全文書きおえてから、
二つ以上のバージョンを作るとしたら、
その労力は果てしない。
しかし、目次レベルであれば、
いくつでもバージョンを作ることが出来るはずだ。
ある要素の有り無しや、
結末違い、展開違いなどはすぐに作れる。
かつ、並べて比較することができる。
もし全文書いたものが3バージョンあり、
それのどれがベストなのか、
考えることを想像してみよう。
読む順によって判断がぶれることがあるだろう。
最初の新鮮さを三読目にも保っていられる保証はない。
大概最初に読んだやつが良かった、
と、だれない時の印象で判断してしまい、
フラットな目線で評価することは難しい。
しかしたかが目次ならば、
ぺら一枚に書いて、
紙を並べて比較できる。
壁に貼ってその前を歩き、
並び替えたりして比較することもできる。
これが可能なのは、
逆に、複数作ったり判断するのが簡単な、
俯瞰の状況だけである。
複数バージョン作るバカはいない。
その労力があれば、
別作品をもう一本つくったほうがいい。
そもそも複数バージョンを正しく評価できるほどの、
眼力の保証がないし。
ということは、
本文を一文字も書かない状態で、
比較検討を十分しておいたほうが、
全然楽で合理的なのだ。
あの要素は入れるべきか不要か、
そんなことはよく迷う。
そのときに、どれだけ俯瞰で考えられるかということは、
書き手の実力と比例する。
俯瞰というのはつまり、
結末まで見えていて、
それがどのようなテーマ性をもっているか、
という一番外の視点である。
そういうことを、
たかが目次を作るときに、
色々考えるのである。
あなたは何本も書いたことがないかも知れない。
何回も挫折したかも知れない。
それは、まず最初にこういうことをしてなかったから、
という可能性を指摘しておく。
たかが目次である。
作るのはすぐだ。
これで色々考えたことは、
何枚ものカードに書いてみよう。
一要素一カードでだ。
それらを並び替えたり、
足し引きしたりすると、
更に全体が考えやすくなったりする。
これがハリウッドでよく使われるカード法である。
カードの枚数は、
14枚×4ブロックの流派もあれば、
10枚×4ブロックの流派もある。
日本映画の箱書きという方法論では、
全体を8にわけ、その中に数枚ずつのカードを並べる。
これらを作り始めても始めなくても、
比較検討は、あくまで目次形式がよい。
なぜなら、カード法はすでに俯瞰の目線から、
ちょっと現場に降りてしまっているからである。
そうではなく、
もっと上から眺めるためには、
目次程度の概要が望ましい。
これらのモヤモヤしたものが、
いずれプロットとして清書されるのだが、
プロットを書く前に、
実はこのような俯瞰と組み換えの試しが、
行われていることは、
なかなか想像できないかも知れない。
で、
「いける」と思う時が、
書き始めに適したときだ。
その時まで、こうやって事前の試しが、
沢山ある。
あるいは、調べ物をして、
それにリアリティがあるかどうか、
普通本物はどうなのかを、
知って行き、フィクションとの距離感を決めていく過程もある。
それも何も、
全ては簡単な目次があるからこそである。
どうしてその話は面白いのか?
それは目次から想像できるのが、
理想である。
逆にこの段階で色々練りこまれていないなら、
それは大して面白くない可能性が高い。
2018年02月22日
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