何のために、
目次を作ったり、
縦線法をやってみたり、
カード法で発見をしたりするのだろうか?
それは、あなた自身がそのストーリーに慣れる為なのだ。
これらの構想を何もしないで書き始めるということは、
ぶっつけ本番で講演会をやることに似ている。
大体喋ることのネタだけは決めておいて、
喋りながら流れを作る人もいるだろう。
講演会のいいところは、
複数の話をできるところだ。
全然別のトピックを、
一つの時間内にぶちこんでもよい。
最悪落ちがなくてもいい。
楽しかったです、で終えてもいい。
しかしストーリーはそうではない。
関係ない話は存在しない。
全ては物事の解決のために進むし、
脇道があれば、
それがどう本筋と関係しているかは、
遅くとも話が終わるまでには判明するべきだ。
(理想は途中でわかること)
話の意義が確定した時、
それがすべて念入りに準備されたことに気づくものだ。
講演会に比べて、
ストーリーというものは、
もっと緊密で、
もっと論理立てて、
しかももっとノリがよくなければならない。
何も準備せずにストーリーを書き始めることは、
無手で講演会にいき、
講演会以上の仕事をすることに等しい。
そんなうまいこといくわけないやんけ。
目次を作ったり、
ああでもないこうでもないと考えたり、
色々なバージョンを作ってみたり、
前のを消して新しいのに書き換えたり、
まとめて一覧したり、
矛盾に気づいて直したり、
などの、事前行為は、
全てリハーサルである。
あなたの本番、つまり執筆そのものの、
リハーサルなのだ。
リハーサルを沢山しているからこそ、
本番で起きるアクシデントにも対処できる。
それは既に考えたことに、
大抵属しているからである。
むしろ、大体考え尽くしたから、
書き始めるのだ。
通し稽古に近いのが、
僕はプロットを書くことだと考えている。
今までの構想や部分的なものを集めて、
一度全文日本語で通しで書いてみる、
ということだ。
これで初めてほんとうの読後感、テーマに、
気づくこともあるかもしれない。
それは本番にフィードバック出来る感触になりえる。
その中で最もよくあるやつのひとつは、
「もっと強弱をつけたほうがいい」だろうね。
一部だけを見ていてわからないことの筆頭だと思う。
もっと落差を、あるいはもっとフラットに、
もっと強く、もっと弱く、
なんてのは、全体が見えていないと出来ない判断だ。
あるいは、
「〇〇は△△に変えたほうがいい」
なんてのもよくある判断だ。
それは通した時に初めてわかる感覚だったりする。
逆に、本番で初めてそんな感覚を覚えてしまったら、
途中変更ばかりで、ガタガタのものになるだろう。
おそらく行き着くべきゴールにすら、
うまくたどり着けなくなる。
ゴールを決める瞬間の、
見事さ、爽快さ、
つまりは落ちこそがストーリーの命だというのに。
ということで、
これらの準備行為は、
あなた自身があなたのストーリーに慣れるためにやるのだ。
ストーリーが形をなしてくると、
キャラクターが立ち始めたり、
世界観がどんどん構築されてゆくはずだ。
その世界に浸り、
色んな登場人物の目線から世界を眺めて、
自然になるように体に通す作業が、
準備行為ではないかと僕は考えている。
役者は自分の役だけリハーサルしとけばいいんだけどさ、
脚本家は全部の役をリハーサルするんだぜ。
役者の本番は撮影だけど、
脚本家の本番は執筆だからね。
2018年02月24日
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