2018年02月24日

「一人で〇〇する」は物語にならない

初心者の誤解シリーズ。


一人暮らしの人や、孤独な人が書きものをするのだろう。
その反映か、
一人の行動や現象を追いかけるものが、
たまによくある。

しかしこれは独り言と同じで、物語ではない。

一人称の小説ならば成立するかもしれないが、
三人称形式の映画や演劇では成立しないことは、
わかっておいたほうがよい。


たとえば。

一人で克己する訓練。
(ダイエットや筋トレやタイプウェルなど)

一人でやる復讐。
一人でやる完全犯罪。
一人でやる部屋の模様替え。
一人で食べる深夜飯。
一人で書く小説家や漫画家。

先日あり得ないとして断った仕事では、
「母親が死んでずっと感情を失った男が、
あるスポーツのシーンを見て、
始めて泣く」
というプロットであった。

それはこの男の一人の行動でしかなく、
そこにストーリーが発生していない、
と僕は批判したが、
書いた本人は自覚していなかったようだ。
(たぶん今でも理解していないだろう)

じゃあ逆にストーリーとはなんだろう?
「他人と起こる事」と定義してみよう。

一人で何をしてもストーリーにはならない。
他人といて何か起こることがストーリーだ。
なぜなら、
そこには「他人という思い通りにならないもの」
がいて、
その他人とどうするか、
ということがあるからである。
最も単純なストーリーは、
登場人物が二人であると僕は考えている。

思い通りにならない自分の体重とか、
思い通りにならない自分の計画とか、
思い通りにならない値段とアイテムとか、
思い通りにならない店とか飯とか、
思い通りにならない作品の出来とか、
思い通りにならない自分の感情は、
そこにあるかもしれない。

しかし、それは自分対「人間ではないなにか」
でしかない。
自然現象や、都合や、自分の感情でしかなく、
人ではない。
つまり無生物だ。

無生物とのコンフリクトはストーリーにならない。
障害物競争は他人との競争で意味があり、
障害物との闘いではないのである。

なぜだろうか。

無生物との闘いでは、
人は言語を発しないからである。

先ほど、一人称小説にはなるかもと書いたのは、
一人称小説では考えている言葉を、
内語、地の文で示すことが可能だからだ。
我々が扱う三人称形式では、
それを示すのはパントマイムか、
ナレーションしかない。
そして終始自分の思うことを語るのは、
映画ではタブーである。

なぜタブーか、ここでは大きく突っ込まない。
「ナレーションを一切使わないことが三人称の条件である」
と解釈する程度でよい。
勿論多少使うのは構わない。
しかしそもそもナレーションというのは内語である。
内語は三人称では聞こえない。
エスパーじゃない限りね。

つまり、
三人称形で言葉を発するには、
「誰か他の人」に限定して使われる。
なにかしてくれ、しないでくれという注文や、
自分の意図を説明したり、
事情を説明したり、
仮にこうだとしたらと仮定したり、
議論したりすることが、言葉である。

英語でいうのが簡単だな。
三人称はdialogueで、
一人称はmonologueだ。

ことばというときに、
monologueを書くのは間違っている。
映画で書くべき言葉は、すべてdialogueである。

もし言葉を使わずに、
つまりパントマイム(サイレント)で、
ダイエットする話や、
復讐する話や、
模様替えする話や、
深夜のメニューを決める話や、
泣けなかった男が泣く話が、
面白く書けるなら書いてみたまえ。
それはたいして面白くもない、
アリの観察にしかならないだろう。

映画は他人の観察でしかない。
それが三人称だ。

アリが一人で何かしていても面白くない。
そのアリが他のアリとケンカしたり、
もめたりするから面白くなってくる。
しかもそのアリは言葉をしゃべる。
それが映画の原型である。


勿論、一人の場面もあるにはあるだろう。
ダイエットする人の場面は、
「じゃあいっしょに甘いもの食べに行こうよ」
と言われたときにはじめてストーリーになる。

復讐する人の物語は、
誰かにばれて「通報します」と言われたとき、
初めてストーリーになる。

部屋の模様替えをする人は、
途中で誰かが来て、「ださい部屋」と言われたとき、
初めてストーリーになる。

深夜の飯を食う男は、
誰かが間違って最後のひと皿をもって言ってしまいそうになって、
声を荒げて初めてストーリーになる。

泣けなかった男は、
安直に泣いている人を見て、
説教をし始めて、
初めてストーリーになる。

これらは一例だが、
全て、一人でやってきたことが、
「思い通りにならない他人」に出会ったときだ。

その時にどうするのか。
その他人を思い通りにしようとするのか。
交渉するのか。
それとも第三の解決策を探るのか。

そのすべてがストーリーの種となる。

他人に出会わないストーリーは、
ストーリーと言わない。

モテナイ男はストーリーにならない。
別嬪さんに出会って、初めてストーリーが始まる。
(モテナイ女に出会ってもいいが、
たいてい何も始まらないので除外した)



自分の思い通りにならないことに、
我慢できないから、
他人に要求する。
その他人も、自分の思い通りにならないことに我慢できないから、
抗議する。
それがコンフリクトであり、
じゃあどうすればいいのか、
を探ることがストーリーだ。

一人で延々とにんまりしたり呟き続けるのは、
ストーリーとは言わない。

勿論、
一人称小説やエッセイでは成り立つかもしれない。
それは一人称小説やエッセイと呼ばれ、
ストーリーや物語とは呼ばれない。

(エッセイ漫画を思いだせばよく分かるが、
主人公の思うことが四角の吹き出しに入っているよね。
それはmonologueであり、
丸い吹き出しに入っているdialogueとは別のものだ)



どうしても発想できないなら、
主人公の望みと競合する誰か他人をだそう。
そこからが本番である。
その人が終盤にしか出てこないなら、
その人を序盤に出そう。
posted by おおおかとしひこ at 23:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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