初心者の誤解シリーズ。
一人暮らしの人や、孤独な人が書きものをするのだろう。
その反映か、
一人の行動や現象を追いかけるものが、
たまによくある。
しかしこれは独り言と同じで、物語ではない。
一人称の小説ならば成立するかもしれないが、
三人称形式の映画や演劇では成立しないことは、
わかっておいたほうがよい。
たとえば。
一人で克己する訓練。
(ダイエットや筋トレやタイプウェルなど)
一人でやる復讐。
一人でやる完全犯罪。
一人でやる部屋の模様替え。
一人で食べる深夜飯。
一人で書く小説家や漫画家。
先日あり得ないとして断った仕事では、
「母親が死んでずっと感情を失った男が、
あるスポーツのシーンを見て、
始めて泣く」
というプロットであった。
それはこの男の一人の行動でしかなく、
そこにストーリーが発生していない、
と僕は批判したが、
書いた本人は自覚していなかったようだ。
(たぶん今でも理解していないだろう)
じゃあ逆にストーリーとはなんだろう?
「他人と起こる事」と定義してみよう。
一人で何をしてもストーリーにはならない。
他人といて何か起こることがストーリーだ。
なぜなら、
そこには「他人という思い通りにならないもの」
がいて、
その他人とどうするか、
ということがあるからである。
最も単純なストーリーは、
登場人物が二人であると僕は考えている。
思い通りにならない自分の体重とか、
思い通りにならない自分の計画とか、
思い通りにならない値段とアイテムとか、
思い通りにならない店とか飯とか、
思い通りにならない作品の出来とか、
思い通りにならない自分の感情は、
そこにあるかもしれない。
しかし、それは自分対「人間ではないなにか」
でしかない。
自然現象や、都合や、自分の感情でしかなく、
人ではない。
つまり無生物だ。
無生物とのコンフリクトはストーリーにならない。
障害物競争は他人との競争で意味があり、
障害物との闘いではないのである。
なぜだろうか。
無生物との闘いでは、
人は言語を発しないからである。
先ほど、一人称小説にはなるかもと書いたのは、
一人称小説では考えている言葉を、
内語、地の文で示すことが可能だからだ。
我々が扱う三人称形式では、
それを示すのはパントマイムか、
ナレーションしかない。
そして終始自分の思うことを語るのは、
映画ではタブーである。
なぜタブーか、ここでは大きく突っ込まない。
「ナレーションを一切使わないことが三人称の条件である」
と解釈する程度でよい。
勿論多少使うのは構わない。
しかしそもそもナレーションというのは内語である。
内語は三人称では聞こえない。
エスパーじゃない限りね。
つまり、
三人称形で言葉を発するには、
「誰か他の人」に限定して使われる。
なにかしてくれ、しないでくれという注文や、
自分の意図を説明したり、
事情を説明したり、
仮にこうだとしたらと仮定したり、
議論したりすることが、言葉である。
英語でいうのが簡単だな。
三人称はdialogueで、
一人称はmonologueだ。
ことばというときに、
monologueを書くのは間違っている。
映画で書くべき言葉は、すべてdialogueである。
もし言葉を使わずに、
つまりパントマイム(サイレント)で、
ダイエットする話や、
復讐する話や、
模様替えする話や、
深夜のメニューを決める話や、
泣けなかった男が泣く話が、
面白く書けるなら書いてみたまえ。
それはたいして面白くもない、
アリの観察にしかならないだろう。
映画は他人の観察でしかない。
それが三人称だ。
アリが一人で何かしていても面白くない。
そのアリが他のアリとケンカしたり、
もめたりするから面白くなってくる。
しかもそのアリは言葉をしゃべる。
それが映画の原型である。
勿論、一人の場面もあるにはあるだろう。
ダイエットする人の場面は、
「じゃあいっしょに甘いもの食べに行こうよ」
と言われたときにはじめてストーリーになる。
復讐する人の物語は、
誰かにばれて「通報します」と言われたとき、
初めてストーリーになる。
部屋の模様替えをする人は、
途中で誰かが来て、「ださい部屋」と言われたとき、
初めてストーリーになる。
深夜の飯を食う男は、
誰かが間違って最後のひと皿をもって言ってしまいそうになって、
声を荒げて初めてストーリーになる。
泣けなかった男は、
安直に泣いている人を見て、
説教をし始めて、
初めてストーリーになる。
これらは一例だが、
全て、一人でやってきたことが、
「思い通りにならない他人」に出会ったときだ。
その時にどうするのか。
その他人を思い通りにしようとするのか。
交渉するのか。
それとも第三の解決策を探るのか。
そのすべてがストーリーの種となる。
他人に出会わないストーリーは、
ストーリーと言わない。
モテナイ男はストーリーにならない。
別嬪さんに出会って、初めてストーリーが始まる。
(モテナイ女に出会ってもいいが、
たいてい何も始まらないので除外した)
自分の思い通りにならないことに、
我慢できないから、
他人に要求する。
その他人も、自分の思い通りにならないことに我慢できないから、
抗議する。
それがコンフリクトであり、
じゃあどうすればいいのか、
を探ることがストーリーだ。
一人で延々とにんまりしたり呟き続けるのは、
ストーリーとは言わない。
勿論、
一人称小説やエッセイでは成り立つかもしれない。
それは一人称小説やエッセイと呼ばれ、
ストーリーや物語とは呼ばれない。
(エッセイ漫画を思いだせばよく分かるが、
主人公の思うことが四角の吹き出しに入っているよね。
それはmonologueであり、
丸い吹き出しに入っているdialogueとは別のものだ)
どうしても発想できないなら、
主人公の望みと競合する誰か他人をだそう。
そこからが本番である。
その人が終盤にしか出てこないなら、
その人を序盤に出そう。
2018年02月24日
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