その事情を作るのが、
脚本という仕事だ。
一般に、脚本とは台詞を書く事だと誤解されている。
脚本を見れば台詞がたくさん書いてあるから、
これを書くことが脚本を書くことだと勘違いするのも、
まあしょうがない。
じゃあサイレント映画の台本を書くのは、
脚本を書くことじゃないの?
音楽PVの、たとえばストーリーものを作るときの、
サイレントの台本は台本じゃないの?
脚本(台本)を書くことは、
ストーリーを作ることである。
それが台詞で表現されても、されなくても、
ストーリーは存在する。
それを作ることが、脚本を書くということだ。
で、
なにを書けばストーリーになるのか、
ということを、ここでは延々と考えている。
これとこれとこれ、というふうに結論づけられれば問題ないのだが、
そんな風に言えないところが、
ストーリー論を難しいものにしている原因だ。
(人によっていうことが違うし)
脚本に書かれるのは、
時と場所、
そこにいる人、
そこにいる人が何をするか、何を言うか、
次の時と場所…
のループでしかない。
それが、第一シーンからラストシーンまで並んでいるだけのことである。
これじゃあストーリーにならない。
何がストーリーかというと、
ある話題に沿って皆が動いていることが、
ストーリーである。
それだけでは飲み会と同じなので、
ある「解決したらそれで終わり」というのが決められていて、
そこに見事に着地すれば終わりと決めておく。
これがストーリーだ。
ある解くのが難解な事件や、謎や、
困ったことなどが起こり、
それを話題の焦点にしながら、
二人以上の人が、
どうにかして解決して、それでおしまい。
それがストーリーの一番の骨の部分だ。
それだけじゃなんなので、
キャラクターやシチュエーションなんて肉付けや、
思いの交錯というコンフリクトや、
ビジュアル上強く面白くかつ場面の意味を示すもの(イコン)や、
全体を見終えた時に、
これが一体何だったのかというまとめ(テーマ)などで、
それらを楽しませるのである。
で。
ある人がある台詞を言う、あるいは無言で行動するとする。
何故そうするのか?
それを動機という。
動機は、ただそうしたかったから、なんて理屈のないものはない。
必ずそこに、事情が存在する。
動機とは事情である。
やりたかったからレイプした、
という感情的動機は現実にはあるが、
物語にはほとんどない。
そんな単発は数分で終わってしまうからで、
もっと長く起きる出来事を物語では扱う。
AVはワンプレイ30分もあれば飽きてしまう。
映画は2時間飽きさせない、長時間の娯楽である。
(小説とかはもっとかな)
だから長時間行動したり、なにかを言ったりするには、
どうしてもそうしなければならない、
事情がある。
物語の全ての言動には動機があり、
その動機の大元には事情がある。
事情がなくて動機だけがある人はいない。
仮に突発的な感情で行動することがあっても、
その事情を鑑みればやむなし、
と見ている人が納得すればよし。
つまり、
脚本家が創作する最も大切なものは、
「その人の事情」なのだ。
何故彼はそんなこと言うのか。
こういう事情だからだ。
(先に分からせてもあとで明かしても良い)
何故そんな事態になるような判断をするのか。
実はこういう事情だからだ。
全ての芝居は、
そこに書かれている言動を、
「まるでほんとうのことのようにすること」である、
と前記事で議論した。
それが本当の本気で、
何故その人は言ったりやったりするかといえば、
それはそういう事情があるからである。
脚本家は台詞を書く。
これは嘘ではない。
物理的には発言集を時系列で書くわけだ。
しかし文字になっていない、
事情こそが、その台詞の裏にいる。
その見えないものと、見える文字を、
両方書くのが脚本家の仕事である。
バカな人は台詞をちょっと直して、っていうんだよ。
字しか見てない証拠だ。
それを直すんなら、事情ごと直さなきゃいけないよ、
と言っても理解できないバカが、ちょっと台詞を直して、
って言うんだろうね。
実際、書かれている文字なんて、
脚本家の仕事のうち氷山の一角だ。
書かれていないがたしかにある、
各人の事情や目的や動機が、
脚本の氷山である。
その氷山を作るために、
執筆前の下準備が必要なんだよ。
場面のビジュアルアイデアなんて、
ほんとに氷山の表面2ミリくらいのことさ。
2018年02月25日
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