自分だけが特別だからだ。
これはもうしょうがない。
だから常に今客観的か、を見る癖をつけるしかない。
たとえば「多様性を認めよう」というとき、
「俺の特殊性をみんなが認めるべきだ。
ただし他の変な奴は、俺は認めない」
と思いがちだ、ということだ。
自分から見えているものと、
他人から見えているものが違う。
そこまでは、視点の相対化が出来るし、
想像の範疇かもしれない。
しかし、判断も異なる、
ということがなかなかできない。
これとこれとこれがあったら、
普通こう思うだろ、
の「普通」の基準はどこか?ということだ。
自分基準ならもろに主観的だ。
常識基準なら、ある程度は客観的だ。
でも、所変われば常識は変わる、
という相対化は考えに入っているか?
関西人と関東人の常識は違う。
東京と横浜の常識は違う。
韓国とアメリカの常識は違う。
男と女の常識は違う。
さらに。
全員が常識に従った感じ方をするわけではない。
常識はあくまで平均または約束事で、
常識破りをする人が、世の中を変えるアクティブな人だ。
(あるいは変人、一部ずれている天然、
あるいは希少価値のある尊い人)
登場人物は、全員あなたではない。
でもあなたの作った人物だからどこかにあなたの要素が入っている。
しかしばらつきがなければならない。
同じ人になってしまうからである。
つまり、各人の客観性、相対性についても、
ばらつきがある。
「多様性を認めよう」ということに対して、
「俺を認めろ。多様性だ」という人物もいれば、
「多様性のある他人を認めるのは心底難しいよね」
と考える人物もいるということである。
あるいは、
「多様性は生理的に気持ち悪くて、
単一民族単一文化のなかで、ちょっと違いがあるのが心地よい」
と密かに考える人物もいるし、
「劣った民族に人権なし」と考える人物もいるということである。
ここまで視点を相対化するのは、
かなりの修行がいると思う。
主観を相対化して、客観的に見ないといけない。
あなたは人間である。
俺はこう思う、感じる、判断する、がある。
それはあなたには絶対唯一であるからこそ、
それが絶対唯一であることに気づかない可能性がある。
それはひとつの意見でしかないことは、
なかなか気づかない。
だって俺だし。
その感覚は大事にしながら
(軸足がぶれると作品がぶれる)も、
別の感覚もあるぞと常に思うことだ。
なぜなら、アプリオリに思うことが、
偏見や先入観を生み、
それは物語のエンジン、コンフリクトの種になるからである。
つまり、主観そのものがネタになる。
ネタになるぞと考えるのは客観だ。
話がややこしい。
主観と客観で示す意味の範囲がコロコロ変わっているような気もする。
でもまあ視点移動をするというのはこういうことだろう。
あなたは常に幽体離脱する。
自分の感覚がないのはただの離人症だが、
自分の感覚を持ちながらも、
いや、こうでないと感じてこうではないと考える人もいるぞ、
ということを冷めて考えるのも、
作家としての訓練である。
僕は物語を書くことは、
離人症と多重人格を伴うと考えていて、
それが病的にならない、
つまり社会に迷惑を及ぼさず、
統一された人格が破綻なく進行している限りは、
病気ではないと考えている。
主観と客観はまことに難しい。
やり過ぎると全てが他人事になり、
自分の主観を見失う離人症だし、
自分の軸足を見失い、
コロコロと主観が切り替わる多重人格だ。
俺はこう思うし感じるし、
他の人でこう思うしこう感じる人もいて、
別の人はこう思うしこう感じ、
このキャラクターはこう思うしこう感じ、
常識ではこう思うしこう感じ、
そして俺はこう思うしこう感じる、
が出来るようになるとよい。
全ては違うし、それを分かりながら、
俺はこちらに進む、
その視点の相対性と意思がないと、
作家とは言えない。
相対性がなければ独善で、
意思がなければ無難だ。
2018年02月27日
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