映画は第七芸術である、という論がある。
映画は誕生して高々100年の歴史だが、
それ以前の伝統的な芸術、
建築,絵画,彫刻,音楽,舞踏,文学に続く、
新しい第七ジャンルのものである、という議論だ。
それ以前の6個と何が違うのだろうか。
僕の言葉で言うと「ガワと中身が揃っていること」だ。
建築,絵画,彫刻,音楽,舞踏,文学のうち、
前三者は時間軸のないもの、
後三者は時間軸のあるもの、
で区切りがつくことに留意しよう。
このうち前三者は、ガワだ。
つまりビジュアルである。
三次元と二次元にわかれる。
手に収まる大きさなら彫刻、
それ以上なら建築、と考えよう。
これらは大きさ違いの三次元だ。
建築には建物としての用途もあり、
逆に彫刻とは用途を切り離した建築である、
とも考えられる。
これらが「芸術的に素晴らしい」とはどういうことだろう。
ビジュアルがいい、というのがほとんどではないか?
ビジュアルがいいというのは、イケメンだ、だけではない。
躍動感があるとか、どっしりした存在感があるとか、
異形であるとか、細密であるとか、
生きているかのようだとか、
時を超えた存在感であるとか、
他にない感じであるとか、
目立つとか、独特の存在感とか、
そのようなものがハッキリ濃くあるかだ。
二次元は三次元とは違い、平面上に上のようなものを追求する試みである。
ビジュアル的にいいかどうかを追求する。
実際のところ、
彫刻、建築、絵画に「意味」はあるだろうか?
「〇〇を示す」「〇〇を暗示する」は、
あるものもあるしないものもある。
必ずしもあるものではないし、
あったからといってその価値が上がるわけではない。
それがただそこに存在する、
ということが素晴らしいと思うと良い。
それは、「人」にたとえて良いと思う。
その人がそこにいることが素晴らしい、ということと、
その芸術がそこにあることが素晴らしい、
は、僕はすごく似ていると思う。
ビジュアル上のデザインや、
存在感も全て含めて。
で、
時間軸のある後三者、音楽、舞踏、文学はどうだろう。
時間軸のないものは、変化しない。
だからガワと僕が呼ぶものは、
「変化しないビジュアル」を追求する。
時間軸があるものが追求するものは、
「変化すること」である。
音楽は楽器により、我々の感情をゆさぶる。
我々の感情は音楽によって変化させられる。
ノリノリになるし、号泣するし、
衝撃を受けるし、救われるし、
荘厳な気分になるし、心がほっこりする。
舞踏は人体を楽器の一部にすることだと僕は思う。
身体運動が楽器だと考えるとわかりやすい。
音だけでなく、運動というビジュアルで、
音楽のパーツの一部を担う。
喜び、悲しみ、優雅、勢い、絶望、たのしさ、凛々しさ、
など、身体表現を伴うことで、
音楽は耳だけでなく目でも楽しめる。
音楽や舞踏は、変化を楽しむ。
ただ楽しいだけの音楽(イージーリスニングなど)もあるが、
通常音楽には構成がある。
〇〇からはじまって、〇〇になり、〇〇で終わる、
などである。
つまり時間的変化だ。
音楽や舞踏は、点の何かが変化して線になる面白さだ。
それらが芸術的であるとは、
その技巧や感情が素晴らしいことを言う。
文学だけが、
これらから独立している地位にある。
これまでの5つの芸術は、言葉を介さない。
文学だけが言葉を介する。
言葉の機能は何か。
僕は意味であると考える。
だから、文学だけが意味を扱う。
勿論、建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏に、
意味がないわけではない。
それらは言葉を介さない意味をもっている。
しかし精々これらが語れる意味は、
ひとつないし、数えられる程度の、
無言の意味である。
文学だけが、ことばを介して、
沢山の意味のあることをつなげて行く。
文学には、詩歌、小説が代表的だ。
評論、哲学も入れるかも知れない。
それらが芸術的であるとはどういうことか?
技巧がある程度あることは必要条件だろう。
そして時間軸があり、変化を追求するものである、
ということは確かだ。
しかし言葉が右から左へ流れるだけか?
消えて終わらないから芸術だ。
その流れて消えた意味たちが、
何か大きな意味を一つなすから、
それは芸術だ。
それをテーマという。
建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏にもテーマがあることが多い。
それらは、それぞれのパーツを使って、
ひとつの大きな意味を持つことで、
まとまりの秩序をつくる、
という意味では、文学と同じ構造である。
それぞれのパーツが、
建築材料、絵の具と紙、物質、
楽器の音、身体運動、ことば、
であるだけの話だ。
いよいよ本題の映画だ。
映画におけるこれらのパーツは、
映像、というだけに過ぎない。
映像は、
カメラの質、照明、
美術やロケーション、そこにいる人や動物、
着ているものや持っているもの、
なにをするのか、
映像全体のトーン、
というビジュアルの要素と、
セリフ、音楽、効果音、背景音、無音、
という音の要素があり、
これらをどう組み合わせるかがパーツである。
そして、これらが、
時間軸があるものである以上、
どう変化していくか、
それをどう追っていくか、
どういう流れになるのか、
が問題であり、
かつ、
文学と同様、
それらが全て終わった時、
全てのパーツがある大きな意味に沿って、
巧妙に配置されたものであるように、
秩序だったものであるとき、
それを芸術というのではないか。
映画は第七芸術であり、
それまでの6つの芸術を超えた、
あるいは包含する芸術である。
映画には建築は登場できるし(既存のもの、新作)、
映画には絵画は登場できるし(既存のもの、新作、
画面そのものが絵画)、
映画には彫刻は登場できるし(既存のもの、新作、
物体で何かを形作るとすれば大道具小道具は彫刻の範囲)、
映画には音楽は登場できるし、
映画には舞踏は登場できるし(海外では肉体アクションを振り付ける人も、
舞踏のコレオグラファーと同じ役職名)、
映画には文学が登場できる。
そしてこれらの、
ガワのビジュアルと、
時間軸で変化するものと、
時間軸で変化していく意味と、
全てを包括する意味とが、
全てうまく融合できたものだけが、
優れた映画である。
映画は金儲けの道具であるが、
それは芸術性を売り物にする、
という特殊産業である。
芸術性は数値表現できない。
「何にも似ていない、統一された何か」であることが、
その必要条件だ。
そして、ここでずっと書いている脚本論は、
そのガワを除いた、
意味の部分について言及しているわけだ。
2018年03月05日
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