2018年03月05日

第七芸術

映画は第七芸術である、という論がある。

映画は誕生して高々100年の歴史だが、
それ以前の伝統的な芸術、
建築,絵画,彫刻,音楽,舞踏,文学に続く、
新しい第七ジャンルのものである、という議論だ。
それ以前の6個と何が違うのだろうか。

僕の言葉で言うと「ガワと中身が揃っていること」だ。


建築,絵画,彫刻,音楽,舞踏,文学のうち、
前三者は時間軸のないもの、
後三者は時間軸のあるもの、
で区切りがつくことに留意しよう。

このうち前三者は、ガワだ。
つまりビジュアルである。

三次元と二次元にわかれる。
手に収まる大きさなら彫刻、
それ以上なら建築、と考えよう。
これらは大きさ違いの三次元だ。
建築には建物としての用途もあり、
逆に彫刻とは用途を切り離した建築である、
とも考えられる。

これらが「芸術的に素晴らしい」とはどういうことだろう。
ビジュアルがいい、というのがほとんどではないか?
ビジュアルがいいというのは、イケメンだ、だけではない。
躍動感があるとか、どっしりした存在感があるとか、
異形であるとか、細密であるとか、
生きているかのようだとか、
時を超えた存在感であるとか、
他にない感じであるとか、
目立つとか、独特の存在感とか、
そのようなものがハッキリ濃くあるかだ。

二次元は三次元とは違い、平面上に上のようなものを追求する試みである。
ビジュアル的にいいかどうかを追求する。

実際のところ、
彫刻、建築、絵画に「意味」はあるだろうか?
「〇〇を示す」「〇〇を暗示する」は、
あるものもあるしないものもある。
必ずしもあるものではないし、
あったからといってその価値が上がるわけではない。
それがただそこに存在する、
ということが素晴らしいと思うと良い。

それは、「人」にたとえて良いと思う。
その人がそこにいることが素晴らしい、ということと、
その芸術がそこにあることが素晴らしい、
は、僕はすごく似ていると思う。

ビジュアル上のデザインや、
存在感も全て含めて。


で、
時間軸のある後三者、音楽、舞踏、文学はどうだろう。

時間軸のないものは、変化しない。
だからガワと僕が呼ぶものは、
「変化しないビジュアル」を追求する。
時間軸があるものが追求するものは、
「変化すること」である。

音楽は楽器により、我々の感情をゆさぶる。
我々の感情は音楽によって変化させられる。
ノリノリになるし、号泣するし、
衝撃を受けるし、救われるし、
荘厳な気分になるし、心がほっこりする。
舞踏は人体を楽器の一部にすることだと僕は思う。
身体運動が楽器だと考えるとわかりやすい。
音だけでなく、運動というビジュアルで、
音楽のパーツの一部を担う。

喜び、悲しみ、優雅、勢い、絶望、たのしさ、凛々しさ、
など、身体表現を伴うことで、
音楽は耳だけでなく目でも楽しめる。

音楽や舞踏は、変化を楽しむ。
ただ楽しいだけの音楽(イージーリスニングなど)もあるが、
通常音楽には構成がある。
〇〇からはじまって、〇〇になり、〇〇で終わる、
などである。
つまり時間的変化だ。
音楽や舞踏は、点の何かが変化して線になる面白さだ。
それらが芸術的であるとは、
その技巧や感情が素晴らしいことを言う。

文学だけが、
これらから独立している地位にある。

これまでの5つの芸術は、言葉を介さない。
文学だけが言葉を介する。

言葉の機能は何か。
僕は意味であると考える。

だから、文学だけが意味を扱う。

勿論、建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏に、
意味がないわけではない。
それらは言葉を介さない意味をもっている。
しかし精々これらが語れる意味は、
ひとつないし、数えられる程度の、
無言の意味である。

文学だけが、ことばを介して、
沢山の意味のあることをつなげて行く。

文学には、詩歌、小説が代表的だ。
評論、哲学も入れるかも知れない。

それらが芸術的であるとはどういうことか?
技巧がある程度あることは必要条件だろう。

そして時間軸があり、変化を追求するものである、
ということは確かだ。

しかし言葉が右から左へ流れるだけか?
消えて終わらないから芸術だ。
その流れて消えた意味たちが、
何か大きな意味を一つなすから、
それは芸術だ。

それをテーマという。
建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏にもテーマがあることが多い。
それらは、それぞれのパーツを使って、
ひとつの大きな意味を持つことで、
まとまりの秩序をつくる、
という意味では、文学と同じ構造である。

それぞれのパーツが、
建築材料、絵の具と紙、物質、
楽器の音、身体運動、ことば、
であるだけの話だ。


いよいよ本題の映画だ。

映画におけるこれらのパーツは、
映像、というだけに過ぎない。

映像は、
カメラの質、照明、
美術やロケーション、そこにいる人や動物、
着ているものや持っているもの、
なにをするのか、
映像全体のトーン、
というビジュアルの要素と、
セリフ、音楽、効果音、背景音、無音、
という音の要素があり、
これらをどう組み合わせるかがパーツである。

そして、これらが、
時間軸があるものである以上、
どう変化していくか、
それをどう追っていくか、
どういう流れになるのか、
が問題であり、
かつ、
文学と同様、
それらが全て終わった時、
全てのパーツがある大きな意味に沿って、
巧妙に配置されたものであるように、
秩序だったものであるとき、
それを芸術というのではないか。


映画は第七芸術であり、
それまでの6つの芸術を超えた、
あるいは包含する芸術である。
映画には建築は登場できるし(既存のもの、新作)、
映画には絵画は登場できるし(既存のもの、新作、
画面そのものが絵画)、
映画には彫刻は登場できるし(既存のもの、新作、
物体で何かを形作るとすれば大道具小道具は彫刻の範囲)、
映画には音楽は登場できるし、
映画には舞踏は登場できるし(海外では肉体アクションを振り付ける人も、
舞踏のコレオグラファーと同じ役職名)、
映画には文学が登場できる。

そしてこれらの、
ガワのビジュアルと、
時間軸で変化するものと、
時間軸で変化していく意味と、
全てを包括する意味とが、
全てうまく融合できたものだけが、
優れた映画である。


映画は金儲けの道具であるが、
それは芸術性を売り物にする、
という特殊産業である。

芸術性は数値表現できない。

「何にも似ていない、統一された何か」であることが、
その必要条件だ。


そして、ここでずっと書いている脚本論は、
そのガワを除いた、
意味の部分について言及しているわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:51| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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