2018年03月12日

前から順番に書いたような脚本(「スリービルボード」評)

あらゆる要素が完璧な映画だった。
役者、撮影、キャラクター、展開の意表、
セリフ、音楽、脇のいい感じの役、
ステレオタイプが誰もいない濃いリアリティ、
ずっと続く緊張は素晴らしかった。
イコンを「三枚のビルボード」にしたのも素晴らしい。

しかし一番大事なピースが抜けていた。
「で、これ結局なんやったんや?」
だ。

以下ネタバレ。





あのラスト以外なかったのだろうか。

たしかにあのアイダホから来た男を殺そうが、
途中で引き返そうが、
どっちでも蛇足にはなっただろう。
あのラストの切り際は、たぶんあそこしかない。

しかし、そこまでの流れはそれでよかったのかなあ。


アイダホの男が犯人じゃない、
という展開も面白かった。
しかし、
「じゃあ、これまでやってきたことは、
何だったんだ?」というのが、
落ちに来なければならないはずだ。

それこそが、この映画のテーマに直結したはずだ。
それが全くなかった。

実に残念だ。
「思いつかなかったので、
想像が膨らむいいところでスパッと切っておきました」
という脚本家の敗北宣言に見えた。
だって、テーマが最後に立ち現れなかったからである。



ストーリーに特筆すべきものはたくさんある。
敵に回った署長がガンだというのも新鮮だったし、
その部下が最終的に味方になる展開も面白かったし
(DNA採取の場面の面白さよ!)、
署長の自殺も意外でよかったし、
その自殺の最後の日、最高のセックスをするというエピソードも忘れられない。
あの美しい景色も最高だった。

看板が燃やされるのもいいし、
何枚か予備があるというのもいいし、
小人症の男のエピソードもいいし、
鹿もよかったし、
19歳の愛人も良かった。
全部の要素が名作にふさわしい堂々としたもので、
けれど、最後のピースだけが失われていた。

で、この映画、なんやったん?


差別(人種、ホモ、小人)がテーマではない。
それはあの場所の通奏低音にすぎず、
物語はそれに対してフラットな立場を貫いている。
「人間は完璧ではない」もテーマではない。
善人でも悪人でもない、
人間の描き方は素晴らしかったが、
だからといって、それとレイプ事件は関係がない。
(レイプされた娘も全くの善人でないところがリアリティがあってよい。
殺された人が善人である必要はなく、ひとしく人権があるという思想は素晴らしい)


娘の事件解決がセンタークエスチョン
(焦点)の筈なのに、
それが未解決で終わってしまうことに問題がある。

ずっと焦点であったくせに、
実は空虚なマクガフィンであったのだ。

これは観客に対する裏切りである。
最初から未解決となることがわかっていたら、
こんなに集中してみないだろう。
つまり、すかしっぺであったわけだ。


ここから想像。

この脚本は、
頭から順番に書いていったのではないか?
凄く濃く書いていったのは素晴らしい仕事だが、
結局どうしようか迷ってしまい、
迷路に入ったのを、
アイダホの男が出てきたことによって、
そっちへ話をスライドさせて無理やり終わらせたのではないか?

署長がガンであること、
刑事がゲイであること、
署長が自殺すること、
窓から広告屋を放り投げること、
警察に放火すること、
小人に助けられること、
などは、
伏線なしの驚きの展開で、
それらに夢中になったのはよくわかる。

しかし、
これらは、頭から書いていったときによくある、
「そのあとを考えていない、とりあえず意外な展開」
ではないだろうか?

だから、あとどうやってまとめればいいのか、
わからなくなったのではないだろうか。


書く前に、
善人でもない悪人でもない、
差別でもない純真でもない、
そういう人々を描こうと思っていただろうことは、
容易に想像できる。
しかしそれを経て、
「人々がどういう境地にたどり着くのか」
が全く用意されていなかったのではないか?

だから困って、一番切って想像が膨らむところで、
カットすることで逃げたのではないか。

だってあのラストなら、
アイダホの男、いらないもんね。
あの男が出てこないまま、
あの人間関係で普通に真犯人に迫って終われたからね。
それが唐突ともいえる登場
(刑務所や自慢話からひょんなことで漏れることがある、
という伏線はひいてあったものの)
からのいきなりの展開であったのが、
とても気になった。

途中で7ドルのウサギを壊した男と同一人物かと思ったが、
どうやら違うようだ。
(だとするとあの男、なんのために出てきたんや)

ということは、いろいろ考えるに、
あまりにも行き当たりばったりの脚本だといえる。

あれ?ファイアパンチかな?


役者の芝居は素晴らしい。
キャラクターも面白かった。
ストーリー展開も意表をついて引き付けられたし、
音楽も撮影も美術も素晴らしかった
(窓から投げるのはワンカット撮影!)。

あとは落ちだけだというのに。


つまりこの映画は、
一級品のガワだけがそろっていて、
中身の一番だいじなところがかけていた、
つまりは中身のない映画だったということだ。

ざんねん。
posted by おおおかとしひこ at 17:09| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
手書きの初稿→そのままPCで清書、のみだそうです…。

https://twitter.com/tsuruhara/status/965943426096144385
Posted by ほら at 2018年03月12日 19:14
ほらさん情報ありがとうございます。

オイオイ大丈夫か。
あとは編集で何かを切ったかも知れない
(たとえばアイダホ男が真犯人で、
軍は庇っていたということになっていて、
結局撃ち殺して終わったとか)
ので、その原稿次第だけど…。
そういう普通の話をラストをカットすることで、
深みのあるように見せることが出来る、
ということは、知っておくと良いでしょう。

ということは、脚本家、力尽きただけだな。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年03月12日 21:10
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