「シェイプオブウォーター」の脚本上のテクニックについて、
ひとつ述べておく。
隣人の絵描きについてだ。
彼を「話し相手」として使うのが巧みであった。
(以下ネタバレ)
映画は三人称である。
一人称と違い、心の声はない。
従って、考えていること、思っていることは、
彼らが外に出す(誰かに表明する形で)か、
行動と文脈から、我々が察する以外にない。
主人公の清掃婦の隣人の絵描きは、
口のきけない彼女の話し相手になる代わりに、
彼女の気持ちを「外に出させる」役割を果たしていることに、
脚本を書く人間ならば気づくべきだろう。
彼がいないことを想像すればすぐわかる。
どうやって彼女の思いを、
観客に伝える?
その困難さを考えれば、
彼がいることによって、どれだけテクニック的に楽か分かるだろう。
ただの棒人間でないのは、
髪の毛が生えてくるという人間らしさや、
絵描きとして雇われているが、
それもダメそうなことや、
ゲイである悲しみ
(元の会社の上司らしき人が、
元恋人だろうか?)
などによって、
担保されている。
しかも髪の毛は、半魚人のヒーラーファクターの、
上手な説明になっているのが素晴らしい。
ついでにゲイでないと、
彼女との友情関係が成立しないので、
うまくした設定だと思った。
彼女の欲求不満(かつその相手にならないこと)
も上手な前振りであった。
(R15指定は一人上手のシーン?異種交配?)
口のきけない主人公は、
手話で「誰かに語る」ことでしか、
自分の気持ちを表現できない。
その受け役として、隣人の絵描きは、
とてもいい役柄を与えられていた。
助演男優賞を与えたいが、
「スリービルボード」のディクソンには負けるから、
これは譲らないとしょうがないなあ。
話し相手は、
登場人物の内面を吐露させる。
もちろん、どうしても喋りたくなるように、
焦点を持ってこないとわざとらしいが。
(逆に誰にも本心を言わずに、
野生の鹿にだけ本音を吐露する、
「スリービルボード」の母親も思い出そう。
話し相手のテクニックの逆用である)
2018年03月13日
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