「スリービルボード」「シェイプオブウォーター」
を立て続けに見たこともあるけど、
「昔」のほうが、物語をつくりやすいよなあ。
今なら監視カメラがあるから無理だろ、
今ならそれは職場で問題発言だ、訴えられる、
今ならそれはすぐスマホで通報されるから無理だ、
今ならそれはすぐ拡散されるから無理だ、
今ならそんな差別はない、
今ならネットで調べればすぐ出てくる、
今のセキュリティならそれはできない、
今ならそんなこと表立ってできない、言えない、
今はそんなに人がおおらかじゃない、
などのオンパレードであったような気がする。
とくに若い人の感想でびっくりするのが、
「昔はこうだったの?」ということだ。
そうだよ、ほんの10年前は、
もっとセキュリティなんてゆるくて、
もっと人がおおらかでいい加減で、
もっと人が人を信頼してて、
もっと監視がなかったんだ。
映画における基本単位は「行動」である。
なにか意思や目的があるから、
人は行動に出て、
その結果を受けてストーリーというのは展開する
(ターニングポイント)。
その行動に、
現代より制限がかかりにくいのが、
「昔」という舞台装置であるなあ、
と、二本をみながら思っていた。
つまり、
現代は昔より、監視が進んだ。
監視カメラ、ネット、連絡体制、自主規制。
昔ならこれらをかいくぐって行動することができたし、
昔ならこれらをはねつけて思うことを堂々と言い、誇りを持てた。
裏に隠れず、自分の感情をもっと素直に出せた。
(もちろん、その時代その時代での抑圧はあるだろうが)
行動と発言に関して、「昔」のほうが自由であった。
今はがんじがらめになっていて、
空気がつまっているなあ、
なんて、二本を見ながら思っていた。
逆に言えば、「昔」は自由で風が吹いている。
ケータイができて、
「待ち合わせのすれ違いドラマ」がなくなった、
といわれた。
昔のすれ違いメロドラマは現代にうしなわれた。
文明の発達は、
人を便利にもするが、
人を不幸にもしている。
たとえば、いつでも連絡を取れるから、
会社からの連絡に1分で返事しないと怒られるとかね。
ケータイがなかったときは、
昼休み終わって戻ってからでも対応すればよかったはずだよな。
24時間「ひも付き」になってしまって、
今度はブラック対策が必要になってしまった。
こと映画において、
行動や発言に制限が強いと、
何もできなくなる。
アカデミーレースを競った二本のストーリーは、
「昔」のほうがストーリーを作りやすい、
ということを示唆しているのかもしれない。
ああ、そういえばそもそもアメリカには、
「時代劇」というものがなかった。
我々が江戸時代や戦国時代を舞台にした時代劇を楽しむのは、
「人がもっとおおらかでいられて、しかも文明の制限をうけない」
ということができて、
人の本質をあぶり出すことをしやすいからである。
時代劇の扮装や美術セットはガワでしかなく、
ストーリーは、より人間の本質に迫れるのである。
ヨーロッパにおいてそれは中世であり、
韓流においてそれは宮廷時代であり、
中国においてはそれは三国時代であろう。
アメリカは新しい国であるから、
それが50年代、60年代、70年代、
なのかもしれないね。
つまりアメリカは、
ようやく「時代劇」というフォーマットを、
手に入れたのかもしれない。
たとえば80年代も、もはや時代劇の範疇に片足を突っ込んでいる。
僕が子供のころは戦前戦後や大正ロマンが古現代劇だったけど、
玉音放送は、今や時代劇の範疇に入りかかっているかなあ。
(その時代に生きていた人がいなくなったら、
時代劇にはいるのだろう。
90年代や00年代だって、
いつか「今」ではなく、時代劇になるのだ。
もっとも、そのころ日本があって、
映像によるドラマや映画が作られていて、
みんなが見ている、という状況があるかはわからないが)
話が広がり過ぎた。
映画は行動である。
この原則は変わらない。
ただ、それに制限がかかり過ぎるのが現代である。
だから現代は息苦しいし、
「昔」を舞台にしたほうが、
行動をうまいこと描ける可能性がある。
もし現代でドラマを描く事に困っていたら、
「少し前」を舞台にしてみるというのは、
悪くない選択肢かもしれない。
(もちろん製作費とかそういうものを無視してはいる)
2018年03月14日
この記事へのコメント
コメントを書く