僕は割と正論派である。
だからわりと喧嘩する。
どうしてかずっと理解していなかった。
きっと向こうが馬鹿なんだろうと。
わからないから、
正論よりもメンツとか、そういうのを重視しているのだろうと。
それは真実であったが、最近新たにもう一つのことを知った。
「何を言っても言い負かされる」という感覚が、
人にあるということ。
仕事の仮編集でもめていたときのことだ。
僕は正論を言う。
相手が何を言ってきても、
そんなことはずっと考えてきたことだから、
簡単に論破できる。
そこで相手がつい漏らしたことを、
僕は聞き逃さなかった。
「監督に何を言っても言い負かされるから、
これはお願いとして頼むしかない」
なるほど。
つまり、頼みたいことが先にあって、
その正当化に理屈や議論をしていたというのか。
「それは不要である、なぜなら〜」
という僕の正論はどうでもよくて、
言い負かせられたらそれでよくて、
つまり議論は暴力でもいいということだ。
僕にとっては、議論は正解を導くための道具である。
与えられたこの条件において、
これが最適解であるという解法であり、
それが正論である。
だから無駄も無理もない、
一番スマートな結論で、
誰が同じパズルを解いても同じ解にたどり着く。
それを多少頭がいい分人より早くたどり着くので、
その道程を明らかにし、
いわば数学の証明のようにつまびらかにしているだけなのである。
それを、「何を言っても言い負かされる」という風にとらえられているとは、
非常に心外であるとともに、
人間関係は所詮パワーゲームにすぎず、
最適解を出すチームではない、
ということを思い出さざるを得なかった。
自分のやりたいことのために、
法律を曲げる人もいる。
法律がだめなら暴力(直接暴力だけでなく、
脅しなどの間接も含む)
を行使するだけのことなのだ。
議論、法律、暴力の順で使うだけなのだね。
この人たちは、「やりたいこと」が優先で、
「やるべきこと」が優先じゃないんだね。
最適解を出すためには、自分が引っ込む必要がある。
最適の前に自分を律せないと意味がない。
最適解を出し、正論で攻める人はみなそうだ。
しかし、
自分のやりたいことのために回りを曲げていく人は、
最適解を出すかどうかよりも、
相手が「自分のやりたいことしかしてこない」、
邪魔な人に見えているのだろう。
「俺が譲っているのだから、お前も譲れ」
という、
最適解のためには全く意味のないことを言う馬鹿がいる。
その最適解のためにどれだけ自分を殺してまでたどり着いているか、
その人は想像もできないのだろう。
僕は、扱いづらい監督なのだそうだ。
譲らないから。
(「いけちゃんとぼく」ではずいぶん譲らされた。
今は失敗だったと考えている)
譲るかどうかが、
最適解かどうかではなく「我」でしかないと、
「扱う」人は思うのだろうな。
実に残念である。
ガリレオを魔女裁判にかけるような人は、
そういう人なのだろう。
真実よりメンツ。
つまりこれは、物語の種になる。
永遠に和解できない二つの考え方は、
コンフリクトを生む。
自分を犠牲にして真実に殉じる人と、
自分を通すためにパワーゲームをする人。
社会のデファクトスタンダードは、こうして作られると。
エンターテイメントは、全く架空のことではありません。
現実と両輪のものです。
ここを読んでいる人は、多かれ少なかれ、
プロを目指す人でしょう。
その人に現実の業界のことを語ることは、
重要なことと考えます。
現実はエンターテイメントではありません。
どうにかして闘うしかないのです。
また、人を笑顔にするのがエンターテイメントだと考えているのなら、
少しエンターテイメントに関する理解が足りないようですね。
記事を読んだ印象としては、相手の鼻っ柱にパンチをいれて、悶絶している間に自分は青い鳥を追っかけどこかに行ってしまう、そんな印象でした。
「いけちゃんとぼく」のDVDを購入し、「風魔の小次郎」もレンタルですが拝見させて頂きました。
このブログの記事も、いつか書籍化して頂けるのではないかと、勝手に期待している次第です。
そんな僕が、大岡さんの次作がなかなか出ないのは、きっと記事に書かれたことも要因の一つなのだろうと、稚拙な憶測ながら、ついコメントしてしまいました。
これからもブログは読ませて頂きます。
書籍化された際は、しっかりお金を落とさせて頂きます。
がんばって下さい。
握手できるほどの人格者に会う確率は、普通の社会より低いですね。
現実は魑魅魍魎ばかりで、
そんな魑魅魍魎の見分け方を後輩に書いているつもりです。
大体悪魔は最初は魅力的に微笑むものですなあ。
勿論一部には信頼できる人もいます。
問題は、その人たちは(今のところ)お金を持っていないことですね。
まさに、「正論が通じない」というか、
「正論」になんの価値も重きも置かない人間がたくさん
いるのだと、中年になって最近やっと気づきました。
「正論」より、事実を曲げても「自分保存と自己賛美」が大事。
小・中・高校で「事実は大事」って、一緒に一貫して習ってきたのではなかったのか。。。
うーん。驚愕です。自分が幼すぎたのか。。。
特に日本人は「出る杭を打つ」のが得意で、
正論だけが出る杭になっていることがしばしばありますね。
正論か否かより、出る杭が否かが行動原理という。
そこに知性はなく、動物本能しかないのが残念で、
教育というものは本能に逆らい知性の火を灯すことと考えます。
で、打てないほど出すぎた杭になるよう、
心がけることにしています。
その集団でない集団に発見されれば良いなと思っています。
「打てないほど出すぎた杭」良いですね!
私は(自称)適応障害になるところです。もちろん、それではいけませんが。どうやって距離を取るか、を試行錯誤しています。
私の職場は結構、高学歴者が多いです。
が、しかし、動物的本能が洗練されているだけです。
「自己保存と自己賛美」の欲求に逆らう力は、教育にはなかった!というのが最近の私の結論です。
黒沢明監督の「羅生門」をしばしば思いします。見たのは、高校生の時だったか。その時は、映画の中の事だと思っていました。今は現実です。
周囲の多様さ(羅生門のような)に都度対応するのは、覚悟が大変な気が。
障害持ちでなくとも、なんだか世の中は厄介ですがね。
ちなみにここは映画の脚本のことを書いているブログなので、
脚本のことに引っ掛けていうと、
映画は架空のことではないのです。
架空の世界を通して、現実を戯画化するものです。
描かれたもの(ガワ)は架空ですが、
描かれたこと(中身)は現実をうまく抽出したものなのです。
(映画だけでなく、演劇も文学もそうですが)
「羅生門の殺人事件」は架空ですが、
「てんでバラバラな、自分に都合の良いように現実を歪める」は真実です。
だから映画は価値があるのです。
架空を通して現実を描いているのですからね。
優れた映画は、「こことは関係ない別世界」を描きません。
SFだろうがファンタジーだろうがコメディだろうが。
そうやって映画を観ると、人生との付き合い方のヒントがあるかも知れません。
絶望するために映画を作る人はいないと思います。
何かしら人生に希望を与えるのが、いい映画の条件と僕は思っています。
映画と人生と、良い付き合いを。