タイピングするときに、
脳内発声がある/ないという話は、
それが表音文字なのか/表意文字なのか、
というところに帰着すると思う。
清濁同置の理由が連濁だけではないな、
ということをさっき「かろうじて」
という言葉を打った時に思った。
これは「して」の濁音化である、
という意識で僕は書いていることに気づいた。
語源的に「辛く」「して」の合成語として、
ぼくは「かろうじて」を認識していて、
それを書く時には、
「じて」部分は「して」が言いやすいように濁っただけの現象に過ぎない、
ということを意識している。
だから、清濁別置ではなく、同置なのだな、
ということがわかってきた。
この場合の「じて」は「して」の変形に過ぎない、
という無意識で打てるのは、
清濁別置では難しい。
(濁音が清音に対して規則的にある配列を除く。
大抵の清濁別置では、連接効率を考えて清濁は不規則だろう)
ということは、
僕は表意文字を打っていることになる。
「して」という概念を書いている。
薙刀式で言えば、
「して」という概念に対してREという運動をする。
運動というとおおげさだから、そういう絵を描いてる感覚だ。
漢字ほど象形文字ではないが、
線と概念が一対一対応している感覚だ。
ひらがなやカタカナは本来表音文字だというのに、
僕はもはや表音文字を書いている感覚はない。
意味の塊と、絵が一対一対応している感覚である。
押すキーの順番は筆順みたいなものである。
親指シフト(ニコラ配列)や、
新下駄配列を僕はマスターしていないが、
モーラと打鍵が一致するような配列は、
同テンポで打っていくのが正解かも知れない。
テープの走行速度やbpmが変速したら音が乱れるから、
打鍵は一定のテンポが望ましいのだろう。
これらは表音文字として、タイピングしていると考えられる。
(上級者になれば変わってくるかもだが)
僕はそれを前提にしない。
なので、打つテンポはバラバラだ。
表音じゃなくて表意なんだから、
テンポは関係ないのである。
ローマ字ではどうだろう。
極めれば脳内発声がないのかな。
カタナ式では最高1200字/10分近くまで行ったが、
それでも脳内発声があった。
その先では脳内発声が消えて、
表意文字としての手の運動になるかも知れない。
薙刀式では同じ測定法で現在900文字/10分程度であるが、
脳内発声がなく静かにものを考えられる。
英語のアルファベットは、表意文字なのか?
表音ではないよね。
単語として表意である、パーツ扱いなのかもね。
今の薙刀式の感覚はそれに近い。
26の代わりに50ある、みたいなこと。
この辺は英語タイピングの人に聞いてみないと分からないなあ。
タイピングでブツブツ言う人がいるよね。
そういう人は間違いなく表音文字として、
タイピングしているよね。
僕はもはやブツブツ言うと遅くなるくらいには、
タイピング出来ている。表音が表意の邪魔になる。
作家の人とか、高速タイパーとかどうなんだろうね。
2018年03月16日
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