原始的であるということは大事だ。
物語の成立が、近代より前だからではないかと、僕は考えている。
バーフバリの何がここまで我々の心をひきつけるのか。
それは近代社会以前の、
我々が獣の時代に生きていたときの、
原始的な心を呼び覚ましてくれるからではないか。
バーフバリの圧倒的な魅力は、
王の魅力である。
圧倒的な魅力の王の前に我々は膝まづきたくなる。
これは近代の個人主義の逆である。
すべて自己責任としてやっていかないといけない、
市民として生きなければならず、
近代的自我と戦わなくてはならない、
21世紀との逆である。
素晴らしい理想の王が、
何も心配することない、我についてこい、
ということで我々を魅了する。
ただただそのカッコよさに惚れて思考停止していればよい。
我々民草は、偉大なる王についてけさえすればよい。
このしびれるような魅力が、
バーフバリの最大の魅力である。
つまりこれは近代の否定である。
個々人がそれぞれ、
間違っていたとしても自分の脳で考えなければならず、
各自で責任を取って生きていかないといけない、
近代より以前の暮らしである。
結局、歴史的に理想的な王はいなかった。
大体の時代において、王はひどいことをした。
それは、
王族は特別な種族ではなく、
我々と同じ人間であったからである。
人権思想というのは、
上も下も人間にはない、というところを根っことしていて、
民主主義の根幹になっている。
しかしそれは、おそらく、
人間が「頭で考えて」発見したものであり、
原始的な本能には入っていない。
近代は、正しいかもしれないが、
息が詰まる。
原始は、ある種の間違いかもしれないが、
気持ちいい。本能を解放させる。
その解放の快感が、バーフバリである。
貴族ものというジャンルがある。
これは人が貴族のみしか登場しない、
ごく狭いジャンルである。
「世界」はせいぜい10人程度である。
愛憎や人間関係はそこの中で語られる。
だから濃く、面白い。
セカイ系が登場人物2人が世界だというように、
貴族ものは、世界が10人くらいしかいない中で、
話がすすむ。
たかが兄弟の確執が、大げさにも王位継承の問題になる。
たかが嫁とりの三角関係と母親の関係が、
自国と隣国の政治外交問題になる。
この、世界と人間との距離の狭さが貴族ものの魅力である。
つまり、「人間の本質」が、
「世界を揺るがす一大事」になるのだ。
現代において、
世界を揺るがす一大事なんてそうそうない。
宇宙人が攻めてくるとか、第三次世界大戦とか、
そういう大げさな舞台装置が必要だ。
しかし貴族ものにそういう設定は必要ない。
世界の命運は、
たかが嫁とりの誤解と修復と、
兄弟の確執程度の範囲に収めることが可能だ。
つまり、「世界」の半径と、「人間関係」の半径が、
一致している。
人間は世界で、世界は人間である。
これが、世界における全能感をもたらす。
近代以降は人間の価値が上がったように見えて、
実は多くの人間がいるから、等価値になっただけだ。
人間の数が多すぎて、
何も特別なことにならなくなった。
個人の悩みが世界と関係することはない。
近代が抱えるテーマ、疎外である。
つまり、人一人が世界から切り離されている。
一人の悩みと世界の進行が関係ない。
(「いけちゃんとぼく」の冒頭で示されることばは、
つまり世界からの疎外である)
しかし貴族ものは違う。
兄弟と母と嫁の関係が、
世界の滅亡と直接関係する。
貴族だからである。
だから、貴族ものは原始的に面白い。
人間関係の直接が、
宇宙人や第三次世界大戦なみの規模になるからだ。
ということで、
人間関係の濃さが、インド的で面白かった。
それが世界の一大事になるから、
見ていてハラハラがある。
デジタルと違って、
連絡は取れないから必死になるし、
死ねばそれで終わりの世界だ。
しかも喜びは貴族的に盛大なビジュアルでできるし、
悲しみは餞民にまで落ちるという落差が作れる。
もっとも、古代にあれだけの宮殿を建造する技術はないことくらいわかるが、
それは映画的強調であることくらい、我々は知っている。
(にしても四頭立ての馬の像と、
黄金の王の像の一部は実物大があっただろう。
すげえなあ)
だから絢爛豪華。
だから人間賛歌。
だから危険や死と隣り合わせ。
だから神を信じる。
だから、正義が輝く。
極楽のような音楽とビジュアルが、
更なる極楽浄土を作り出す。
脚本上の留意点は、人間の奥底に響く、
原始的な物語というだけのことだ。
あそこまであからさまで、
本性をむき出しにした物語を、我々は素直に書けるだろうか。
だれも自分を偽らない、いわば素直な人々ばかりであった。
都会でない、田舎の物語でもあった。
悪いときは徹底的に悪く、
素直なときは恥ずかしくなるくらい素直。
これが原始的というところだろう。
あとは王の闘いを、
餞民たる我々が、
思考停止して見守るばかりだ。
バーフバリ! バーフバリ! バーフバリ!
原始的な物語は強い。
我々を獣に戻す。
もっともロマンティックで美しい、
白鳥になる船のシーンは、
もっとも原始的な打楽器から始まっていることを忘れないことだ。
我々は近代的な教育を受けた、
責任ある市民であるが、
しかし動物であり獣でもある。
映画は、その間を縫うようにつくるべきだ。
2018年03月17日
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