2018年03月17日

原始的であるということ(「バーフバリ」評2)

原始的であるということは大事だ。
物語の成立が、近代より前だからではないかと、僕は考えている。


バーフバリの何がここまで我々の心をひきつけるのか。
それは近代社会以前の、
我々が獣の時代に生きていたときの、
原始的な心を呼び覚ましてくれるからではないか。

バーフバリの圧倒的な魅力は、
王の魅力である。

圧倒的な魅力の王の前に我々は膝まづきたくなる。
これは近代の個人主義の逆である。

すべて自己責任としてやっていかないといけない、
市民として生きなければならず、
近代的自我と戦わなくてはならない、
21世紀との逆である。

素晴らしい理想の王が、
何も心配することない、我についてこい、
ということで我々を魅了する。
ただただそのカッコよさに惚れて思考停止していればよい。
我々民草は、偉大なる王についてけさえすればよい。

このしびれるような魅力が、
バーフバリの最大の魅力である。

つまりこれは近代の否定である。

個々人がそれぞれ、
間違っていたとしても自分の脳で考えなければならず、
各自で責任を取って生きていかないといけない、
近代より以前の暮らしである。


結局、歴史的に理想的な王はいなかった。
大体の時代において、王はひどいことをした。
それは、
王族は特別な種族ではなく、
我々と同じ人間であったからである。
人権思想というのは、
上も下も人間にはない、というところを根っことしていて、
民主主義の根幹になっている。

しかしそれは、おそらく、
人間が「頭で考えて」発見したものであり、
原始的な本能には入っていない。


近代は、正しいかもしれないが、
息が詰まる。
原始は、ある種の間違いかもしれないが、
気持ちいい。本能を解放させる。

その解放の快感が、バーフバリである。



貴族ものというジャンルがある。

これは人が貴族のみしか登場しない、
ごく狭いジャンルである。

「世界」はせいぜい10人程度である。
愛憎や人間関係はそこの中で語られる。
だから濃く、面白い。

セカイ系が登場人物2人が世界だというように、
貴族ものは、世界が10人くらいしかいない中で、
話がすすむ。

たかが兄弟の確執が、大げさにも王位継承の問題になる。
たかが嫁とりの三角関係と母親の関係が、
自国と隣国の政治外交問題になる。
この、世界と人間との距離の狭さが貴族ものの魅力である。

つまり、「人間の本質」が、
「世界を揺るがす一大事」になるのだ。

現代において、
世界を揺るがす一大事なんてそうそうない。
宇宙人が攻めてくるとか、第三次世界大戦とか、
そういう大げさな舞台装置が必要だ。

しかし貴族ものにそういう設定は必要ない。
世界の命運は、
たかが嫁とりの誤解と修復と、
兄弟の確執程度の範囲に収めることが可能だ。

つまり、「世界」の半径と、「人間関係」の半径が、
一致している。
人間は世界で、世界は人間である。
これが、世界における全能感をもたらす。


近代以降は人間の価値が上がったように見えて、
実は多くの人間がいるから、等価値になっただけだ。
人間の数が多すぎて、
何も特別なことにならなくなった。
個人の悩みが世界と関係することはない。

近代が抱えるテーマ、疎外である。
つまり、人一人が世界から切り離されている。
一人の悩みと世界の進行が関係ない。
(「いけちゃんとぼく」の冒頭で示されることばは、
つまり世界からの疎外である)

しかし貴族ものは違う。
兄弟と母と嫁の関係が、
世界の滅亡と直接関係する。
貴族だからである。

だから、貴族ものは原始的に面白い。

人間関係の直接が、
宇宙人や第三次世界大戦なみの規模になるからだ。


ということで、
人間関係の濃さが、インド的で面白かった。
それが世界の一大事になるから、
見ていてハラハラがある。
デジタルと違って、
連絡は取れないから必死になるし、
死ねばそれで終わりの世界だ。

しかも喜びは貴族的に盛大なビジュアルでできるし、
悲しみは餞民にまで落ちるという落差が作れる。

もっとも、古代にあれだけの宮殿を建造する技術はないことくらいわかるが、
それは映画的強調であることくらい、我々は知っている。
(にしても四頭立ての馬の像と、
黄金の王の像の一部は実物大があっただろう。
すげえなあ)

だから絢爛豪華。
だから人間賛歌。
だから危険や死と隣り合わせ。
だから神を信じる。
だから、正義が輝く。

極楽のような音楽とビジュアルが、
更なる極楽浄土を作り出す。



脚本上の留意点は、人間の奥底に響く、
原始的な物語というだけのことだ。
あそこまであからさまで、
本性をむき出しにした物語を、我々は素直に書けるだろうか。
だれも自分を偽らない、いわば素直な人々ばかりであった。

都会でない、田舎の物語でもあった。
悪いときは徹底的に悪く、
素直なときは恥ずかしくなるくらい素直。
これが原始的というところだろう。


あとは王の闘いを、
餞民たる我々が、
思考停止して見守るばかりだ。
バーフバリ! バーフバリ! バーフバリ!

原始的な物語は強い。
我々を獣に戻す。

もっともロマンティックで美しい、
白鳥になる船のシーンは、
もっとも原始的な打楽器から始まっていることを忘れないことだ。


我々は近代的な教育を受けた、
責任ある市民であるが、
しかし動物であり獣でもある。
映画は、その間を縫うようにつくるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 17:51| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。