2018年03月31日

【薙刀式】両手の間でことばを転がす配列

飛鳥はぬるぬるつながる。
新下駄は1モーラ1アクション。
親指シフトは日本語のリズムで打つ。
(これは中途半端であることは前に示したが)
月は快速なロールオーバー。
新JISは徹底したシフト率の低さ。

一言で言える配列は、わかりやすく、浸透しやすい。
キャッチフレーズや二つ名の原理である。

薙刀式は、「両手の間でことばを転がす」配列
と、打鍵感を表現してみることにする。


薙刀式は、
片手アルペジオを重視した配列だ。
「ある」「ない」「する」「もの」「おも」が右手の中核に、
「して」「こと」が左手の中核にいる。
また、これらから繋がりやすい音がさらに同手にある。
「う」は右手の「い」「も」「あ」と繋がるように右手にあるし、
「か」「ま」「り」などは左手にある。

これらにより、
「右手だけで打つ言葉」と、
「左手だけで打つ言葉」が多数、高確率で存在することになる。

極端な例では、
「思わないなあ」の7音が右手だ。
(シフトを含むが、連続シフトのため、
「おもわ」までは連続シフト中のアルペジオである)

左右交互打鍵はスピードにおいて優れていると言われる。
しかし僕は根がズボラなのか、
左右交互打鍵は「めんどくさい」と思ってしまう傾向があるようだ。
なぜわざわざ右手を使ったのに、
次に左手を使わなければいけないのか、
右手で続けてサラサラと書けないのか、
という発想が根本にあるようである。

おそらく手書きの発想なのだろう。
手書きでは左手は紙を抑えることにしか使わない。
「字を両手で書く」なんて有り得ないのだ。
(轟一番じゃあるまいし。古いなあ)

右手の次に左手を使い、左手の次に右手を、
と交互に使うことを、僕はほとんどしたことがない。
ぱっと思いつくのはパンチンググローブを連打するときくらいだろう。

他に左右交互をするのは、「歩く」ときだ。
足ならば左右交互打鍵しているね。
だから、左右交互打鍵は「走る」イメージがあるかもしれない。
でも僕には四足歩行の記憶がないので、
手で走ることが出来ないようだ。
ドラマーなら手で走る感覚はあるのだろうか。

qwertyローマ字を、
子音左手母音右手の、左右交互打鍵のカタナ式にしたのは、
子音母音の構造が、その方が効率的だと思ったからだ。
しかし実際のところ、
打ってて気持ちよかったのは、
高速な左右交互打鍵部分ではなく、
「you」や二重母音の右手アルペジオや、
促音部の左手アルペジオだった。

これはqwertyローマ字でもそうで、
右手でUIOあたりが続くのは気持ちよかった。

僕の手はつまり、
「片手でつづる」ことに快感を覚えるようだ。

勿論、右手だけで延々綴れるのが理想なのだろうが、
残念ながらキーが足りないし、
キーボードはそういう構造になっていない。
(今気づいたのだが、
自作キーボードなら、左右を非対称にして、
右手偏重の右手アルペジオ重視配列を作れるかも)

なので、現行キーボードを使う限り、
右手だけで綴る
→左手だけで綴る
の繰り返しが解である、
ということになる。

勿論そんなにうまいこといかないから、
左右交互打鍵も中には出てくるだろう。
しかし僕にとっては、
左右交互打鍵のほうが悪運指だ。

「出来るだけ片手で綴ること」が、
薙刀式の正義なのかもしれない。


これはこれまでの配列設計の常識、
左右交互打鍵率を血道を上げてアップする、
ということの真逆かも知れない。
薙刀式では、いわば左右交互打鍵が悪運指なのだ。
「同手同指段超え」は悪運指であることは勿論だ。
そうなるくらいなら逆手に逃がしてしまえ、
程度の左右交互打鍵の評価だと、
僕は思っていたのかも知れない。

そうまでして保存した感覚とは、
「片手で綴る」という感覚であると考える。

で、結果的には、
数音を片手で、数音をもう片方で、
どちらかといえば右手が多く長くなり、
たまに左右交互に忙しく動く、
みたいな軌跡になる。

「両手の間でことばを転がす」という感覚である。

これは清音のことについてだが、
シフト部、濁音同時押し、半濁音同時押し、拗音外来音同時押し、
の修飾子がオプションでついているような感覚で、
基本になっているのは清音部の言葉の綴り加減である。
清濁拗音外来音同置という滅茶苦茶さは、
清音の流れに修飾子がついている、
という感覚に寄与していると思う。


薙刀式に慣れてくると、
ブロック単位で運指の組み立てが行われるようになる。
これは薙刀式だけではなく、
すべてのタイピングでそうだろう。
ある程度の塊を一単位で打っていくようになってゆく。
そうすると、
「なにかの軌跡を描く」のような感覚になってくる。
意味と運動の軌跡が一致するような。

左右交互は糸を編んで布を織るような感覚があるが、
片手で清音の線を書くのは、習字で文字を書いているようだ。
その基本線に、
濁音修飾子(10%)、拗音修飾子(3%)、
シフト修飾子(25%。ただし連続シフトの部分、
シフト文字の濁音拗音はシフト不要なので体感数字は下がる)
が、張り付いているまたはぶら下がっているような感覚だ。

拗音外来音の同時押しにより、
1モーラ1アクションが実現されているのも、
この感覚を維持するのに役に立っている。


ということで、
言葉がずっとつながっているような感覚がある。
右手で綴り左手にパス、
左手で綴り右手にパス。
ずるずると、自分の中から芋づるを掘り出していくような感覚。

その感覚が、僕にとっては「書くこと」のような気がしている。


歩くようには僕は書けない。
立ち止まって、頭の中から芋づるを見つける感覚かも知れない。

そういう人は、薙刀式が向いてるかもだ。


僕にとって薙刀式は、
鍵盤でなく万年筆のほうが近い道具だと思う。
(カタナ式は、限定鍵盤のようだった)
posted by おおおかとしひこ at 21:54| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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