脚本にはいくつかタブーがある。
落ちなしはだめ。夢オチ含む。
自分を書くと分離できなくなる。
伏線なしの唐突は受け入れられない。(驚かせるのを除く)
そして、「長い回想は禁止」だ。
あまりにもバーフバリが面白かったので、
まったく気づかなかったのだが、
ちょっと離れて見てみると、
脚本のタブーを犯していることに気づく。
つまり、父があまりにも魅力的で、
子供にいまいち感情移入しづらい、
という欠点があることに気づく。
これは、脚本のタブー、
「長い回想はだめ」を犯している。
長い回想は、
回想の世界に感情移入してしまうと、
現在の感情移入がどこかに行ってしまう欠点がある。
回想が終わって現在に戻ってくると、
再び「現在の感情移入を取り戻す」をしないとだめで、
それに失敗すると、
過去の方がよかったなあ、なんてぼーっとしてしまう。
バーフバリの上手なところは、
父と子を、同じ役者にやらせているところである。
我々は父に感情移入しまくるが、
その死を嘆くとともに、
その血を引いている息子が同じ顔をしているので、
「その血を引いている息子」と、
強く認識することになる。
よく考えてみると、
息子のエピソードは、
1におけるシヴァ神の神像を滝の下に持って行ったことと、
滝登りをしたことくらいで、
父の濃いいエピソードに比べて弱い。
だから息子はこの物語においては、
主人公足り得ていない。
どっちかというと視点共有の人物になってしまい、
傍観者の立場になっている。
ところが、同じ役者なので、
血を引いている息子よ、
お前は父を継ぐのだ、
ということに、
恐ろしく燃える構造になっている。
もしこれが違う役者だったら、
「父の方がよかったなあ」なんて、
ずっと文句を垂れているだろう。
それはすなわち、脚本の構造のままに、
感情移入が等分されていたはずだ。
妻とのラブストーリーだって、
父の方が息子よりも良くできていた。
弓矢を三本発射したり、
弓矢勝負の手助けをしたり、
白鳥の船で踊ったりする方が、
タトゥーと滝登りよりも優っていた。
だからどうしても、
息子の影が薄いんだよね。
でも同じ顔で、同じ役者なので、
ゆけバーフバリよ、と、
バーフバリという「血」を応援したくなるんだよね。
なんだか血が騒ぐ原始的なものは、
こういうところでも保障されているわけだ。
脚本論において、
長い回想はタブーである。
しかし脚本以上に、バーフバリはガワで工夫しているわけだ。
長すぎるバックストーリーがどうしても出てくるならば、
その回想からどう現在に、
より感情移入を強くさせられるか、
を考えないと、
いつまでたってもバックストーリーのほうに気をとられる。
一部二部構成では、二部が弱くなってしまう。
たとえば「ベルセルク」では、
「蝕」までの第一部の感情移入に比べて、
黒い剣士としてガッツが旅する第二部(本編)は、
感情移入が薄いと思う。
サブキャラで色々賑やかしてはいるものの、
キャスカとグリフィスが生き生きしていた第一部に、
今でも戻ってほしいなあと思ってしまう。
(だからキャスカが元に戻り、グリフィスとどうなるのか、
というセンタークエスチョンだけがずっと宙ぶらりんになっていて、
これこそ我々がベルセルクを見続ける動機なのだが)
同様に、インターミッションがあるような長い映画でも、
二部より一部の方が魅力的になってしまうことが多い。
なんでだろう。
感情移入は、先に強烈に起こった方に、
引きずられるからかもしれないね。
理屈じゃなくて感情だからね。
そういう意味で、私たちの感性に、
刷り込み現象のようなものがあるのだろう。
2018年04月01日
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