2018年04月01日

よく考えたら長い回想(「バーフバリ」評3)

脚本にはいくつかタブーがある。
落ちなしはだめ。夢オチ含む。
自分を書くと分離できなくなる。
伏線なしの唐突は受け入れられない。(驚かせるのを除く)

そして、「長い回想は禁止」だ。


あまりにもバーフバリが面白かったので、
まったく気づかなかったのだが、
ちょっと離れて見てみると、
脚本のタブーを犯していることに気づく。

つまり、父があまりにも魅力的で、
子供にいまいち感情移入しづらい、
という欠点があることに気づく。

これは、脚本のタブー、
「長い回想はだめ」を犯している。


長い回想は、
回想の世界に感情移入してしまうと、
現在の感情移入がどこかに行ってしまう欠点がある。
回想が終わって現在に戻ってくると、
再び「現在の感情移入を取り戻す」をしないとだめで、
それに失敗すると、
過去の方がよかったなあ、なんてぼーっとしてしまう。

バーフバリの上手なところは、
父と子を、同じ役者にやらせているところである。
我々は父に感情移入しまくるが、
その死を嘆くとともに、
その血を引いている息子が同じ顔をしているので、
「その血を引いている息子」と、
強く認識することになる。

よく考えてみると、
息子のエピソードは、
1におけるシヴァ神の神像を滝の下に持って行ったことと、
滝登りをしたことくらいで、
父の濃いいエピソードに比べて弱い。

だから息子はこの物語においては、
主人公足り得ていない。
どっちかというと視点共有の人物になってしまい、
傍観者の立場になっている。

ところが、同じ役者なので、
血を引いている息子よ、
お前は父を継ぐのだ、
ということに、
恐ろしく燃える構造になっている。


もしこれが違う役者だったら、
「父の方がよかったなあ」なんて、
ずっと文句を垂れているだろう。
それはすなわち、脚本の構造のままに、
感情移入が等分されていたはずだ。

妻とのラブストーリーだって、
父の方が息子よりも良くできていた。
弓矢を三本発射したり、
弓矢勝負の手助けをしたり、
白鳥の船で踊ったりする方が、
タトゥーと滝登りよりも優っていた。
だからどうしても、
息子の影が薄いんだよね。

でも同じ顔で、同じ役者なので、
ゆけバーフバリよ、と、
バーフバリという「血」を応援したくなるんだよね。

なんだか血が騒ぐ原始的なものは、
こういうところでも保障されているわけだ。



脚本論において、
長い回想はタブーである。
しかし脚本以上に、バーフバリはガワで工夫しているわけだ。
長すぎるバックストーリーがどうしても出てくるならば、
その回想からどう現在に、
より感情移入を強くさせられるか、
を考えないと、
いつまでたってもバックストーリーのほうに気をとられる。

一部二部構成では、二部が弱くなってしまう。
たとえば「ベルセルク」では、
「蝕」までの第一部の感情移入に比べて、
黒い剣士としてガッツが旅する第二部(本編)は、
感情移入が薄いと思う。
サブキャラで色々賑やかしてはいるものの、
キャスカとグリフィスが生き生きしていた第一部に、
今でも戻ってほしいなあと思ってしまう。
(だからキャスカが元に戻り、グリフィスとどうなるのか、
というセンタークエスチョンだけがずっと宙ぶらりんになっていて、
これこそ我々がベルセルクを見続ける動機なのだが)

同様に、インターミッションがあるような長い映画でも、
二部より一部の方が魅力的になってしまうことが多い。

なんでだろう。

感情移入は、先に強烈に起こった方に、
引きずられるからかもしれないね。
理屈じゃなくて感情だからね。

そういう意味で、私たちの感性に、
刷り込み現象のようなものがあるのだろう。
posted by おおおかとしひこ at 12:46| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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