2018年03月25日

【コギー犬さんへの回答箱】主人公の資格

>本を読んでシナリオの勉強していてわからないのですが。 主人公は変化しなければならないというのが鉄則といわれています。 しかし、日本の映画やアニメなどでは主人公は変化しないでただの観測者のようになっていて、後から現れるヒロイン的なポジションの人が変化をしている作品が多く見られます。 これはどういうことなのでしょうか?後から現れたヒロインが主人公なのでしょうか?よくわかりません

たいへんいい質問です。
しかし答えるのは、とても難しい質問になります。

簡単な答えとしては、
「そのような映画やアニメは三流である」
ということが言えるでしょう。
つまり三流がその辺に転がるのは、
日本の現在の脚本のレベルが低いことを示していて、
それが僕がここを書いてる理由の一つです。

以下、長いので、ちゃんと読むには時間がかかるでしょう。
覚悟の上、おつきあいください。


このことを分析するには、
そもそも「西洋の人間の在り方と、日本の人間の在り方が違う」
ということまでさかのぼらないと、
謎は解けません。


簡単に言うと、
西洋文化(というか、ラテンを中心とした英語の文化)は、
「自分が主体であり、言葉で交渉し、目的を達成していく」
ということを前提としています。

英語のディベートというものは、
そういった論を通すこと、
自分の主張を相手に言語で認めさせること、をします。

しかし日本の伝統文化はそうではありません。
主体は世間であり、空気であります。
間接的に自分の目的を達成するようにするものです。
自己主張はみっともないもので、
自分を出さずにいることが美徳です。

「ノーといえる日本」が流行したとき、
日本は、西洋のディベートに対抗するには、
ノーと自己主張しなければならない、と発見しました。
逆に言うと、日本では、ノーと言う人は嫌われる傾向があります。
うまいこと断る理由がない限り、
断れないのが日本という国の文化です。
(たとえばビジネスでも、仕事を断ると、次は断らない人に回す、
という傾向があります)

したがって日本人は、
そもそも自分の目的を持たない民族である、
と乱暴にいう事ができます。

もちろん、自分の中にはあるのですが、
「外にわざわざいう事はあまり美徳と思っていない」
(恥ずかしいことである)
と考えています。


西洋で発展した脚本論、物語論は、
西洋の文化を基にしています。

だから行動の原理は、
「目的を持ち、外に宣言し、
行動、発言し、実現する」です。
その結果、変化が起きます。
凄い経験をしたり、反対にあってそれを変えていったり、
死にそうな目にあうからです。

そのまま達成できなくても、
挑戦したことで多少なりとも自信がつく、
なんて経験をしたことがあるでしょう。
失敗ですらそうなのですから、
成功すると、人は変わります。
もちろん、たいてい良い変化です。
その変化がテーマを暗示します。
(例 勇気のない男が、勇気をだして何かをする。
成功して、立派な男になる。
テーマは勇気の大切さ)


さて。
この行動様式は、日本人らしくありません。
周りの迷惑を顧みず色々なことをする人は、
日本人から嫌われます。
だから日本人の作家は、
主体的に行動して、積極的に発言する主人公を描くのが下手です。
うまくリアルにならないからです。

「恋の為ならどんな障害をも越える男」
は外人なら素敵ですが、
日本人ならちょっと引くでしょうね。
ストーカーかよ、ってなってしまう。
引かないギリギリを作ることが、日本人の作家には求められているわけで、
それは西洋の文化の中でよりも困難と考えます。



もう一つ問題があります。
このブログでよく糾弾する、
メアリースーの問題です。

簡単に言うと、作者はのび太になりがち、
ということです。
自分は何もしない癖に、
なぜか周りがおぜん立てしてくれて、
勝手に幸せになってしまう、
そういう典型です。

そもそもこれは世界中の作家に存在しえます。
なぜなら、
本当に行動力溢れる人なら、
物語など書かずに、
リアル世界で自己実現をしているはずで、
物語を書こうとする人は、
たいてい「よわっちいやつ」だからです。

弱いやつが物語を書くと、
自己の目的をどうやって解決に導くかがうまく書けず、
「すごい他人」に頼って解決してしまう道を選びがちです。
これがメアリースー状態で、
世界中の下手な作家はこれを書いてしまいます。
物語を願望成就の道具にしてしまうわけです。

そもそも、
「主人公は主体的に行動し、
最終的に変化するべき」という脚本論、
ストーリー論の戒めは、
これを防ぐ方法であるというわけです。

さらに厄介なのは、たとえばラノベなど読む人は、
「よわっちいやつ」が多いので、
「自分が何をしなくても、周りが解決してほしい」
というのび太のような欲望を持っています。

なにかをするでもなく、
ただ自分の欲望だけを満足させたい。

ラッキースケベ、という言葉がありますが、
まさにそれはのび太そのものです。
(最近ネットでみた漫画の広告で一番わらったのは、
「なぜか美少女が天井からオレの部屋に降ってきて、
受け止めたはずみに、なぜかいい角度で挿入してしまった!?」
というやつ。ラッキースケベの完成形か)


のび太がのび太の書いた物語を喜んでいる、
というのがラノベやアニメの根底にあり、
のび太が一定量いるからそういうものが売れる
(しかものび太は成長しないので、
永遠にそれに金を落とし続ける)
という、
わりと深刻なループ問題があると僕は考えています。

ラテンの国であるフランスは、
この問題に気付きました。
現在フランスでは「ドラえもん」は放送禁止です。
のび太みたいな人が増えるから、
というのがその正式な理由です。

これは、主体的に言葉で交渉してゆく、
西洋の人間の在り方に真っ向からぶつかるものである、
と彼らは考えているようです。
(大人がそう考えるのは自由だが、
子供が見るものとしては禁止する、という考え方)


さて。
じゃあ、日本人はどうでしょうか。

なにか目的があっても行動しないのでしょうか。
そもそも自分勝手な目的を持つことが恥で、
かつそれをもっても周りに言わないことが美徳で、
かつ仮になにかをするとしても、
直接交渉ではなく、
外堀を埋めて交渉の場ではすでに全部終わっている、
腹芸を使うようなやり方が日本人です。

ということは、
そもそも、
西洋のような主人公の在り方は、
日本では不自然なのです。


ここから、
二択があります。

だから、
西洋のような状態と、日本人の在り方をうまく組み合わせて、
「目的を持ち、そこに向かって主体的に行動し、
最終的に変化する」
という、リアルな主人公を創造するか。

だから、
日本の現状とのび太に甘んじ、
他人になんでもやってもらう、
傍観者としての主人公を描くか。

です。


僕は前者に関することを、
ここで書いているつもりです。

日本人の多くは、
このことに関して無自覚なので、
傍観者のような主人公を、
延々描き続ける傾向にあります。
そしてそのほうが楽だ、というのもあります。

そもそも明治期に発展した、
「私小説」というジャンルは、
なにもしない主人公が、延々と言い訳をする文学です。(私見が入っています)
これはもう日本人の表現が、
「なにもしなくて、いいわけだけは立派で、
誰かになにか奇跡を起こしてもらう待ちで、
その成功者は変化するけど、
傍観者は変化しない」
ということが伝統になっているともいえます。

(ゴジラへの批判にそういうものがあります。
自分たちでなんともできないものを、
ものすごいもので破壊してほしいという、
願望であるという。
科特隊でなんともできないものを、
超人であるウルトラマンが解決してしまうということも、同じ批判があります。
これは日本人が何もできなくなって、
アメリカに何もかも頼る日米安保の象徴である、という批判が80年代にありました。
僕が「シンゴジラ」に否定的なのは、
この批判に対して答えずに、
同じ轍を知らないまま踏んでいるからです。
まあ突き詰めると、そもそも日本人は主体的なのか?
というところにまで発展しますが)



僕はそれらを間違っていると考えていて、
だからここを書いています。


また、アニメには、少年漫画がベースになっているものが多いです。
少年の年齢では、
大人ほど行動力がないため、
傍観者になりがちなことが多いです。
主人公は普通で、
すごい仲間と旅をする、
というテンプレが出来上がってしまいがちです。
(「黒子のバスケ」の初期はまさにそういうテンプレでした。
初期しか読んでいないため、その後はしりません)

ジャンプの基礎をつくった車田正美の漫画は、
そういった主人公が後退しがちな問題を抱えていて、
それを分析、批判したうえで、
どうしたら主人公小次郎は主人公足り得るか、
ということを書いたものが、
実写風魔カテゴリのだいぶ下のほうにある、
「監督メモ」と呼ばれるものにしたためてあります。
漫画におけるこうしたものに興味があるなら、
一読を勧めます。
ドラマ「風魔の小次郎」における小次郎像の再構築は、
このような問題に対する僕のひとつの答えです。





さて。
ということで、
漫画、アニメ、邦画には、
傍観者型主人公が、
やたら多くなるのです。

これはよいことと考えていなくて、
僕はこの現状をなんとかしたいです。
このままではのび太だらけになってしまう。

(もっとも、原作ドラえもんでは、
こうしたのび太が愚かゆえに因果応報を受ける、
というテンプレになっているし、
実質の最終回「さようならドラえもん」では、
それを覆して成長をします。
だからドラえもんが悪いのではなく、
これを見て成長しない人が悪いのです。
ただし、アニメや漫画は編集部が長期的に商売にしがちで、
本来の最終回を遅らせて、
延々変化をさせずに商売を続ける、
という悪習があります)



なので、傍観者型の主人公がいる作品は、
問答無用で三流と認定することにしています。
posted by おおおかとしひこ at 18:56| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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