2018年03月26日

キャラクターを詰めて行く

基本的に、構成の話から、割と順に書いていっている。
設定を詰めて、キャラクターを立てていく。
何のために。

リアリティのためと、オリジナリティのためだ。


あなたがつくった構成や大雑把なストーリーは、
「誰もがそういう目にあったらそうするだろう」
という、一般的なストーリーになっている筈だ。

それがそもそも特異なストーリーで、
オリジナリティ溢れる大冒険であることは重要だが、
そこまでオリジナルなストーリーはなかなかない。
だからキャラクターで変化球をつけてゆく。

この旅をどんな車で走ると(より)面白くなるか、、
である。

同じシチュエーションでも、
キャラクターの設定によっては、
全然違う行動に出るし、
違う決断をするかもしれない。
そしてそれは大まかな計画に対して、
よりリアリティを与えることになる。

普通ならこうだろう、というリアリティに対して、
この人ならこうだろう、というリアリティを加えるのである。

リアリティというものは、
一般的ではない。
しかし特定的でもない。
両方だ。

普通ならこうがリアルだが、
こういう人もいるのもリアルで、
この人ならこうするのがリアルだ、
などと、複合的なリアリティがあるものだ。

たとえば、
知り合い二人をエレベーター閉じ込め事件に放り込んでみよう。
その二人の組み合わせによって、
「その二人が助けが来るまでの時間の潰し方」
が違うということは、リアルに想像できるはずだ。

同じシチュエーションでも、
大まかな反応は同じでも、
その人のリアルが加わるのである。

「エレベーターに閉じ込められたぞ、
困った、どうしよう、
緊急ボタンを押して会社に電話だ。
あとは待つしかないなあ」
までは一般的な反応だが、
それ以外は人によって全然違うはずである。

つまり、
ストーリー(行動や反応、その結果)は、
人によって異なり、
かつ一般的な範疇がある。

これがリアリティの構造である。


特殊な人の特殊なリアリティは意味がない。
それはその人にしか分からないからだ。
他の人にもわかる一般性(わかる)と、
その人独自の特殊性(面白い)が同時に存在して、
初めてストーリーのリアリティになるのである。

そして、その人の独自の面白さが、
オリジナリティになるわけだ。

「ゴジラが街にやって来るのを退治する」
というログラインから、
無限のオリジナルのストーリーが書けるのは、
キャラクターによるのである。


では、
そういったオリジナルの面白い人間像は、
どうやったら出来るのだろうか。

続きます。
posted by おおおかとしひこ at 12:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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