2018年03月28日

嘘をどう使うか

自分に嘘をついている。
他人に嘘をついている。
これは矛盾そのものだ。
矛盾だから、これは物語の種になるのだ。


他人に嘘をつきとおせるか。
これは現実にはやる人もいるかもしれないが、
物語では不可能である。
「嘘を暴いていく、真実が明らかになる」
のが物語であるからだ。

他人につく嘘や、意図せざる誤解などは、
物語ではいつか、ただされてゆくのが常だ。

対立するものが昇華していく、
という古典的物語論でも、これはすでに言及されている。
嘘と真実が対立概念になり、
矛盾をきたしているから、
それが第三の解決方法を探し、
新たな状態に至る(アウフヘーベン)、
という理論である。

たいしたことは言ってないが、
言葉が難しいためとっつきにくいだけだ。

矛盾はいつか解消する。
その解消の流れこそ物語(のひとつ)である。
そう考えておくとよい。


矛盾のひとつに、
他人との齟齬があるわけである。

自分の性格や立場の矛盾、
ついている嘘、誤解、
間違った見方のミスリード、
(悪意のあるものやそうでないもの)
などが、今回扱う道具である。


他人についている嘘を決めよう。
それがどうやって露見するだろう。
あるいは、ほころびが出たとき、
その人物はどうやってそれを覆い隠そうとするだろう。
なぜその嘘をついているのかが設定されると、
動機が生まれる。
それが悪意によるものなら悪い嘘で、
よい動機によるものなら良い嘘だ。
いずれにせよ、
それは物語のどこかで露見し、
最終的には登場人物全員に共有されることになるだろう。
「あいつは嘘をついていたんだ」と。

秘密を持ち、それを覆い隠して、
嘘の仮面をつけて生きていること自体が、
矛盾である。
だからたいていこの人物は、
魅力的に見える。

犯罪者でも、倫理的に許されない人でも、
善意ある秘密でも、
どんなにしたって魅力ができてしまうのだね。

単純に仮面ヒーローですらそうだ。
仮面ヒーローは二つの顔を持っている。
これこそ嘘であり、矛盾だ。



自分に嘘をついているときはどうだろうか。
ほんとはこうしたいのに、
こうなんだと無理やり納得することで、
嘘をついていないか。
トラウマから、本当にしたいことに臆病になっていないか。
こうした内面の葛藤の解消は、
それだけで一つの映画のテーマたりうる。
(内面の葛藤は絵に写せないので、
だれかとのコンフリクトに変換する。
そこがうまいのが名作映画になる。
たとえば「グッドウィルハンティング」は、
成長していく過程の内面の葛藤を、
悪役と若者に置き換えて表現している)

また最近のはやりで、
「実は狂っていた系」があると思う。
自分ではこうしているつもりであったが、
実は客観的に見たらこうであった、というやつ。
まあこれは驚き以上のものではないことが多く、
テーマにまで至ることはなかなかない。

「ビューティフルマインド」では、
たいていラスト近くにくる「狂っていた」を、
前半の強力なターニングポイントとして、
統合失調症から抜け出すことをドラマの主軸に置いているところが、
新しく、素晴らしかった。

なぜ狂っていたのか、
というところにうまくフィーチャーすると、
これをどう解消していくか、がドラマになるから、
そこ以降がうまくかけると、
それも矛盾解消のドラマになるだろうね。



矛盾は魅力だ。
しかしそこどまりでは単なる出オチである。
その矛盾がどう暴かれ、どう解消していくか、
昇華していくかまでが、
面白い物語である。
つまり、矛盾と解消は、セットであることに注意されたい。

前振りが矛盾、落ちが解消である。
posted by おおおかとしひこ at 14:22| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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