2018年03月29日

絵になる場面

構成ができた。
なんとなくストーリーが一本線になっている。
テーマが構成と一致している。
キャラクターも彫りを深め始めた。矛盾を抱えている魅力がでてきた。

これで大体ストーリーはできた、といえるのだろうか。
小説はできるかもしれないが、
ここは映画想定だ。
「絵になる場面」を考えよう。



「絵になる場面」を最初から考えてはいけない。
その絵にたいして、
無理やりストーリーを当てはめることになる。

たいていそれはうまくいかなくて、
この絵がやりたかっただけだよね、
になりがちだ。どや感が透けて見えるというか。

それよりも、
ストーリーの重要場面(すでに大体できているはず。
しかもひとつではなく、複数あるだろう)が、
「どういう絵なら、ハッとするか、
グッとくるか、美しいか、驚きがあるか、
見たことないビジュアルになりそうか、
面白いか、間抜けか、感動する絵か、
度肝を抜かれるか、魂が抜けるか、
一生忘れられない絵になるか」
などができないか、考えるとよい。

それには、まず場面を絵にかいてみるのがよい。
ポスターをつくると考える。
絵がかけなくてもよいので、
こういう絵だといいなあ、という妄想で構わない。

で、その絵が「見たことがある」
という絵になるなら、
それは絵になったことになっていない。

なぜならその絵は「平凡な絵」だからだ。


我々の目的はオリジナルをつくることであり、
すでにあるものに似せて安心することではない。

だから、「新しい絵になるか」が、
その最重要条件であることに注意されたい。


もし見たことがある絵なら、
場所を変えてみる、
天候や時間帯を変えてみる、
服装を変えてみる、
顔を変えてみる、
アクションを変えてみる、
色を変えてみる、
小道具を変えてみる、
大道具を変えてみる、
デザインを変えてみる、
などの、
「ガワ」を変更してみるとよい。

バイクにまたがる絵だとしても、
バイクのデザインが、
サイクロン号なのか、
ホンダのフォアなのか、
生物兵器のバイクなのかで
絵がだいぶ違うだろう。

風が吹いているのか、嵐の中から現れのか、
炎をつっきって登場するのか、
あるいはジャックナイフで止まるのか、
スピンターンするのか、
一人乗りなのか、二人乗りなのか、
向かう方向にはなにがあるのか、
それはどこなのか、
いつなのか(雪の降る中、夜明けの光を受けて、
桜舞い散る中、夕焼けの光の中で、など)
で、
ずいぶん違う絵になるだろう。


こういう絵がかきたい、
という絵描きであってはならない。
あなたは脚本家であり、
絵を描くのは、絵描きや監督である。
(もちろん兼ねることもあるが、今は脚本家のパートである)
「どういうストーリー上の場面なのか」
「それがどういう絵で描かれるとよいのか」
という関係性こそを考えなければならず、
絵だけ単独で存在してはならない。

「ストーリーを絵で表す」ことを考えるべきで、
「絵を先に描いて、
それに当てはまるようにストーリーを捏造する」ではいけない。
なぜなら大変さが違うからだ。

ストーリーに合わせて絵を変えることはできるが、
絵に合わせてストーリーを変えることは困難であるからである。

ためしに、
思いついた絵が使えるように、
最初から、
構成、テーマ、カード、サブプロット、
キャラクターなどを、また最初から作ってみるとよいだろう。

絵に合わせてストーリーをつくるより、
一回ちゃんとしたストーリーができてから、
それにあう絵を考えたほうが、
順序が合理的であることが体感できるはずである。

(絵ありきでストーリーを作ろうとして、
失敗した経験くらい、
ここを読んでいる人にはあるだろう)

順番が違うのである。
ストーリーが全部できてから、
絵を描くといいのだ。



ところで、
絵をかくときに、
「そのものずばり」を描く(順、ベタ)ときと、
「思いもしなかった組み合わせを使う」(逆)ときの、
二種類がある。
「ある場面に対して適切な絵は、
唯一とは限らない」ということを知っておくとよい。

たとえば「別れの場面」という文脈で、
無限のバリエーションの絵がかけるはずだ。
ストーリーが変わらなくても違う絵を当てることは、
全然できるわけである。


脚本で想定した絵では普通だとして、
監督が違う絵にすることは、
絵心のある人の演出としてまれによくあることだ。
(「バックトゥザフューチャー」では、
脚本時点では、タイムマシンは原爆のようなマシンであったという。
これをデロリアンにしたビジュアル上の功績よ!
しかもスピードの電力を得るための、
時計塔に落ちる雷を使うアイデアよ!)

絵が強いなら、アイテム自体を変えてしまっても、
ストーリーの本質は変わらないものである。

ストーリーがしっかりできているなら、
絵はいかようにでも変えていけるのだ。


で。

つまらない絵の脚本は、
あまり印象に残らない。

絵が印象に残るのは、いい脚本である。

面白い絵が記憶に残るようになっているのは、よい脚本の条件だ。
しかし途中の場面しか記憶に残らないのもたくさんある。
それはまだ二流である。

「テーマが一枚の絵で記憶される」ようにできているのが最上で、
それがタイトルになっているのが最上だ。


もちろんそうなるには、すでにテーマができていて、
それをしめす構成ができていないとだめだ。
決して逆順ではできないことがお分かりだろう。
posted by おおおかとしひこ at 12:45| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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