2018年04月02日

映像と小説の違い:五感の言葉

僕は映像の世界でずっとやってきて、
最近ちょっと小説をいじり始めているのだが、
発見したことがある。

五感の違いのことだ。


映像は絵と音だけだから、
視覚と聴覚しか使えず、
残りの嗅覚、味覚、触覚は使えない。
一方小説は残り三つを使える。

これくらいは誰でもわかることだろう。
しかしこの三つの感覚は、
思ったより広大であることがわかってきた。


暑い、寒い、暖かい、冷たい、
ほんのり暖かい、日向のような、
寒気がする、乾いた、湿った、
ねっとりした暑さ、さやわかな風、
ひんやりしている、冷蔵庫のような、
肌が粟立つ、ぶるぶる震える、
とがった、柔らかい、ぎちぎちに、こりこりした、
ゴツゴツした、ザラザラしている、チクチクする、
硬質な、羽のような軽さ、軽々、重い、
腰が痛い、重さのバランスが偏っている、
振り回すのにちょうどいい、
痛い、ちくりとする、せつない、胸がキュンとする、
息苦しい、呼吸がつらい、心臓が痛い、
横腹が痛い、腹減った、喉が乾く、
喉の奥がぬるぬるとしている、
吐き気を催す、
スピードが出ている、
宙に浮く、風を感じる、
頭と足が反対になっている、
横を向く、背後に気配が、
背中に触られた、
左足に鈍痛が残っている、
視線を感じると、

などなど、思いつくまま書いてみた。
これらは全て触覚によるものである。
触覚の担当領域は案外広い。
そして映像では、これらは表現できない。

逆にいうと、
映像出身の小説家は、
このような五感をフルに使って、
体験を舐め回していくとよい。

複合的な感覚もある。

目が痛いほどの鮮やかな色、
耳鳴りがするほどの寒さ、
この味は昔を思い出してせつなくなる、
甘さで涙が出る、
鼻にツンときてえづく、
香りと味にあまりにも違いがあった、
手触りだけで甘さが伝わる、
汗をかきすぎて、シャツがしょっぱい感じがする、
高いところの風景を見てくらくらする、
などなどだ。

これらは決して独特の新しい表現ではなく、
私たちが生きて世界を体験しているときに味わう感覚だろう。

これらは全て映像には出来ないことに注意されたい。
使えるのは、視覚と聴覚のみだ。
もちろん、「〇〇を見て思い出す」などを応用すると、
多少は感覚は広がる。
肉を焼く絵で肉の味や火の温かみを思い出すことはある。
梅干しの映像で唾液が出ることもある。
暗くて先が見えない絵では緊張が高まる。

しかし文章による感覚の豊かさに対して、
実は映像はごく狭い範囲を扱っていることを知ろう。


つまり、映像は感覚を再現できない。

VRに僕が懐疑的なのはそこによる。
文章の方が、よほど扱う感覚の範囲が広いのだ。


だから、
映像で感覚など追求してる場合ではない。
さっさと焦点をおい、目的を果たすために行動するのである。

逆にいうと、文章では、感覚を延々と書くこともできるだろう。
エロ小説なんかはその代表かもしれないね。
posted by おおおかとしひこ at 13:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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