僕は映像の世界でずっとやってきて、
最近ちょっと小説をいじり始めているのだが、
発見したことがある。
五感の違いのことだ。
映像は絵と音だけだから、
視覚と聴覚しか使えず、
残りの嗅覚、味覚、触覚は使えない。
一方小説は残り三つを使える。
これくらいは誰でもわかることだろう。
しかしこの三つの感覚は、
思ったより広大であることがわかってきた。
暑い、寒い、暖かい、冷たい、
ほんのり暖かい、日向のような、
寒気がする、乾いた、湿った、
ねっとりした暑さ、さやわかな風、
ひんやりしている、冷蔵庫のような、
肌が粟立つ、ぶるぶる震える、
とがった、柔らかい、ぎちぎちに、こりこりした、
ゴツゴツした、ザラザラしている、チクチクする、
硬質な、羽のような軽さ、軽々、重い、
腰が痛い、重さのバランスが偏っている、
振り回すのにちょうどいい、
痛い、ちくりとする、せつない、胸がキュンとする、
息苦しい、呼吸がつらい、心臓が痛い、
横腹が痛い、腹減った、喉が乾く、
喉の奥がぬるぬるとしている、
吐き気を催す、
スピードが出ている、
宙に浮く、風を感じる、
頭と足が反対になっている、
横を向く、背後に気配が、
背中に触られた、
左足に鈍痛が残っている、
視線を感じると、
などなど、思いつくまま書いてみた。
これらは全て触覚によるものである。
触覚の担当領域は案外広い。
そして映像では、これらは表現できない。
逆にいうと、
映像出身の小説家は、
このような五感をフルに使って、
体験を舐め回していくとよい。
複合的な感覚もある。
目が痛いほどの鮮やかな色、
耳鳴りがするほどの寒さ、
この味は昔を思い出してせつなくなる、
甘さで涙が出る、
鼻にツンときてえづく、
香りと味にあまりにも違いがあった、
手触りだけで甘さが伝わる、
汗をかきすぎて、シャツがしょっぱい感じがする、
高いところの風景を見てくらくらする、
などなどだ。
これらは決して独特の新しい表現ではなく、
私たちが生きて世界を体験しているときに味わう感覚だろう。
これらは全て映像には出来ないことに注意されたい。
使えるのは、視覚と聴覚のみだ。
もちろん、「〇〇を見て思い出す」などを応用すると、
多少は感覚は広がる。
肉を焼く絵で肉の味や火の温かみを思い出すことはある。
梅干しの映像で唾液が出ることもある。
暗くて先が見えない絵では緊張が高まる。
しかし文章による感覚の豊かさに対して、
実は映像はごく狭い範囲を扱っていることを知ろう。
つまり、映像は感覚を再現できない。
VRに僕が懐疑的なのはそこによる。
文章の方が、よほど扱う感覚の範囲が広いのだ。
だから、
映像で感覚など追求してる場合ではない。
さっさと焦点をおい、目的を果たすために行動するのである。
逆にいうと、文章では、感覚を延々と書くこともできるだろう。
エロ小説なんかはその代表かもしれないね。
2018年04月02日
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