小説には地の文がある。
これは映像にはない、とても強力な武器である。
極端な例を出す。
「二人がいて、問答するだけで完結する」
という小説は可能だ。
ギリシャ以来、この手の哲学的問答は、
この形式で書かれている。
これはつまり、会話の内容に集中して、
二人がどこにいようが何をしようが関係ない、
という意味であり、読む側もそれを理解している。
しかしこれは映像に出来ない。
出来るが、すぐに退屈するのだ。
「二人がしゃべっていて、なにも起こらない」
からである。
これはどういうことか?
映像とは、変化だ。
つまり、「絵替わりをしないと、なにも起こっていないのと同じ」なのだ。
ワンシチュエーションムービーがなぜ難しいかというと、
絵替わりがしないからである。
絵替わりしないことを逆手にとった、
同じ形の迷路を行く「キューブ」はナイスアイデアであった。
しかしこのような飛び道具を使わない限り、
映像では、絵が変わらないことは、
変化なしととらえられるのである。
哲学の問答でなく、
これを小説にしよう。
おそらく可能だろう。
文章で、そこにあるもの以外を描写することができるからである。
それはつまり、人の内面であったり、感覚であったりする。
たとえば別れ話から始まって、
二人の内面を追い続けることは、全然可能だろう。
そこにないものを描写し続けることもできるはずだ。
しかし思い出せば出すほど、
二人の記憶が食い違ってくる、
なんて展開も可能だろう。
そして実は二人はどこかで入れ替わっていた、
みたいなトリッキーな落ちにすることも可能だ。
映像ではこれはできない。
二人が座ってしゃべっているだけの絵になるからである。
もちろん二人の思い出の場面をカットバックして、
ほかのシーンとして撮り、挿入することは可能だが、絵替わりがしないので、
つまりメインの二人の場面が変わらないので、
「展開していない」と思ってしまう。
小説では展開しているはずが、
映像では絵替わりしないことが、
展開していないという感覚になるのだ。
実は、多くの小説の映画化の失敗には、
こうした両者の違いを詰め切れていなかったことが、
結構影響しているんじゃないかと考えている。
小説としては、描写は進行になる。
映画としては、描写は停止になる。
この感覚の違いが、
おそらく両者の決定的な差になって、
積もり積もってゆくのではないだろうか。
先日、
小説「姑獲鳥の夏」を読了した。
先に実相寺昭雄版の映画の方を見ていたから、
どういうことが起こっていたのか、
が小説のほうがわかりやすかった。
しかも、たいして進行していなくても、
小説ではどんどん進行しているように感じた。
とくに冒頭の問答などは、
映画の退屈さにくらべ、
全然読めた。
絵替わりがしないことを考慮して、
映画版では様々にレンズを変えてアングルに工夫があったが、
それでもどうでもいい量子力学のうんちくにしか見えず、退屈であった。
映画では、絵に映ることしか「起こって」いない。
つまり、見た目でわかることしか、情報量を持たない。
副次的に、音がすれば、それを補完することがある。
絵が動かなくても、音で進行することはできる。
別れ話のシチュエーションに戻れば、
そとを街宣車が通ったり、
雨が降ってくる音などで、時間軸を変化させることができるだろう。
つまり、絵でしか進行できない映像に対して、
小説は、言葉で進行できる。
これを地の文で行うことができる。
小説とは、なんと便利で強力な道具をもっていることか。
映像とは、なんと貧弱な道具しかないものか。
ちなみにドキュメンタリーを考えよう。
ドキュメンタリーでは、
「決定的瞬間」がカメラに収まっているかが重要である。
それがわかりにくいものでも、
とにかくその時間が収まっていさえすればよい。
絵と音でわかりにくいなら、
ドキュメンタリーでは、
「解説」を付けることができる。
すなわちナレーションである。
なにがどう起こっているのか、
絵ではわかりにくいが、ほんとうはこういうことが起こっているのだ、
などと解説することが可能だ。
つまり、このナレーションとは、
小説における、地の文と同じ役割を果たすことができるのである。
小説とは、つまり、
ナレーションつきの映像とでもいってもよいのかもしれない。
そして映画の場合、
ナレーションはないものとして考えられる。
説明台詞も下手のものとされる。
つまり、何がおこっているのか、
絵と音で示せないものなど、
映画には不要なのである。
これは、映画における、「使えるもの」が、
ごく限定されていることを意味する。
小説は、逆に、映画では扱わない、
取るに足らないものについて、
一本書くことができる。
これが映画で扱うのに適した範囲になっていない場合、
その小説の映画化は失敗するだろう。
「姑獲鳥の夏」の映画も、
失敗作だったと考えている。
だって退屈だったもの。
猟奇のビジュアルにたいして、
「起こっていることはそれだけ?」となってしまった。
なぜなら、起こっていることは、
映画では映像で示さなければならず、
それは小説のように地の文で補強できないからである。
逆に、小説は、
起こっていることがたいしたことないものでも、
「実は水面下で、以下のようなことが起こっていたのである」
と膨らませることが可能だ。
小説とは、水面下を書くことができる。
映画は、水面しか描けない。
その差を知っておくことだ。
ここでは映画脚本を扱っているので、
「水面下を解説しないといけないものなど、
扱う題材としては不適切である」
と注意喚起するにとどめておく。
2018年04月03日
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