2018年04月03日

映像と小説の違い:地の文の描写

小説には地の文がある。
これは映像にはない、とても強力な武器である。


極端な例を出す。
「二人がいて、問答するだけで完結する」
という小説は可能だ。
ギリシャ以来、この手の哲学的問答は、
この形式で書かれている。
これはつまり、会話の内容に集中して、
二人がどこにいようが何をしようが関係ない、
という意味であり、読む側もそれを理解している。

しかしこれは映像に出来ない。
出来るが、すぐに退屈するのだ。
「二人がしゃべっていて、なにも起こらない」
からである。
これはどういうことか?
映像とは、変化だ。
つまり、「絵替わりをしないと、なにも起こっていないのと同じ」なのだ。
ワンシチュエーションムービーがなぜ難しいかというと、
絵替わりがしないからである。

絵替わりしないことを逆手にとった、
同じ形の迷路を行く「キューブ」はナイスアイデアであった。
しかしこのような飛び道具を使わない限り、
映像では、絵が変わらないことは、
変化なしととらえられるのである。

哲学の問答でなく、
これを小説にしよう。
おそらく可能だろう。

文章で、そこにあるもの以外を描写することができるからである。
それはつまり、人の内面であったり、感覚であったりする。
たとえば別れ話から始まって、
二人の内面を追い続けることは、全然可能だろう。
そこにないものを描写し続けることもできるはずだ。
しかし思い出せば出すほど、
二人の記憶が食い違ってくる、
なんて展開も可能だろう。
そして実は二人はどこかで入れ替わっていた、
みたいなトリッキーな落ちにすることも可能だ。

映像ではこれはできない。
二人が座ってしゃべっているだけの絵になるからである。
もちろん二人の思い出の場面をカットバックして、
ほかのシーンとして撮り、挿入することは可能だが、絵替わりがしないので、
つまりメインの二人の場面が変わらないので、
「展開していない」と思ってしまう。
小説では展開しているはずが、
映像では絵替わりしないことが、
展開していないという感覚になるのだ。


実は、多くの小説の映画化の失敗には、
こうした両者の違いを詰め切れていなかったことが、
結構影響しているんじゃないかと考えている。
小説としては、描写は進行になる。
映画としては、描写は停止になる。
この感覚の違いが、
おそらく両者の決定的な差になって、
積もり積もってゆくのではないだろうか。

先日、
小説「姑獲鳥の夏」を読了した。
先に実相寺昭雄版の映画の方を見ていたから、
どういうことが起こっていたのか、
が小説のほうがわかりやすかった。
しかも、たいして進行していなくても、
小説ではどんどん進行しているように感じた。

とくに冒頭の問答などは、
映画の退屈さにくらべ、
全然読めた。
絵替わりがしないことを考慮して、
映画版では様々にレンズを変えてアングルに工夫があったが、
それでもどうでもいい量子力学のうんちくにしか見えず、退屈であった。

映画では、絵に映ることしか「起こって」いない。
つまり、見た目でわかることしか、情報量を持たない。
副次的に、音がすれば、それを補完することがある。
絵が動かなくても、音で進行することはできる。
別れ話のシチュエーションに戻れば、
そとを街宣車が通ったり、
雨が降ってくる音などで、時間軸を変化させることができるだろう。

つまり、絵でしか進行できない映像に対して、
小説は、言葉で進行できる。

これを地の文で行うことができる。
小説とは、なんと便利で強力な道具をもっていることか。
映像とは、なんと貧弱な道具しかないものか。


ちなみにドキュメンタリーを考えよう。
ドキュメンタリーでは、
「決定的瞬間」がカメラに収まっているかが重要である。
それがわかりにくいものでも、
とにかくその時間が収まっていさえすればよい。
絵と音でわかりにくいなら、
ドキュメンタリーでは、
「解説」を付けることができる。
すなわちナレーションである。

なにがどう起こっているのか、
絵ではわかりにくいが、ほんとうはこういうことが起こっているのだ、
などと解説することが可能だ。
つまり、このナレーションとは、
小説における、地の文と同じ役割を果たすことができるのである。

小説とは、つまり、
ナレーションつきの映像とでもいってもよいのかもしれない。
そして映画の場合、
ナレーションはないものとして考えられる。
説明台詞も下手のものとされる。

つまり、何がおこっているのか、
絵と音で示せないものなど、
映画には不要なのである。


これは、映画における、「使えるもの」が、
ごく限定されていることを意味する。

小説は、逆に、映画では扱わない、
取るに足らないものについて、
一本書くことができる。

これが映画で扱うのに適した範囲になっていない場合、
その小説の映画化は失敗するだろう。
「姑獲鳥の夏」の映画も、
失敗作だったと考えている。
だって退屈だったもの。
猟奇のビジュアルにたいして、
「起こっていることはそれだけ?」となってしまった。
なぜなら、起こっていることは、
映画では映像で示さなければならず、
それは小説のように地の文で補強できないからである。

逆に、小説は、
起こっていることがたいしたことないものでも、
「実は水面下で、以下のようなことが起こっていたのである」
と膨らませることが可能だ。

小説とは、水面下を書くことができる。
映画は、水面しか描けない。
その差を知っておくことだ。


ここでは映画脚本を扱っているので、
「水面下を解説しないといけないものなど、
扱う題材としては不適切である」
と注意喚起するにとどめておく。
posted by おおおかとしひこ at 11:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。