僕はこの話を良くするのだが、
今日は人工知能について考えてみよう。
人工知能というと、題材が面白い。
ロボットも出てくるし、sf的でもある。
なんだかトレンドにもなりつつあるし、
「人は神に似せて作られた、
人は人に似せた人形をつくる」
なんて古典的なテーマとも繋がっている。
つまり、人工知能はガワとして魅力がある。
女にたとえれば美人だ。
中身、つまり性格や考え方や生きかたはまだ分からない。
だが、ぱっと見とびつけるものである。
さて、
人工知能を使った物語は、
どういうものになるだろうか。
人間を超える知性の話になるだろうか。
人格を持つだろうか。
あるいは人格の境界の曖昧性の話になるかもしれない。
人工知能は恋するか。
人工知能は心を病むか。
人工知能は悩むのか。
人工知能は逡巡するのか。
人工知能は矛盾をつきつけられたとき、首尾一貫性をどう保つのか。
まあ、色々あるかもだ。
ちなみに、「人工知能」を「ロボット」に置き換えても、
ほとんど成立する。
僕らが育った時代はロボットだった。
冷たいマシンだが熱いハートがある、
ロボットに感情は芽生えるのか、
ロボットに人格を認めるのか、あんな怪物のようなパワーなのに、
などなどだ。
肉体がマシンだったから、
マシンのモチーフ、マシンの特徴がテーマに絡みがちだね。
で、ロボットの前は、
人造人間だったんだろう。
フランケンシュタインとか。
錬金術によるホムンクルスとか。
その前は、人形かな。
精巧な彫刻が動き出して…みたいなことか。
さて。
これらは、ガワが違う、
同じ中身の話をしていることに、
そろそろお気づきであろう。
ガワは、人工知能、ロボット、人造人間、人形と、
モチーフやマテリアルを変えながら、
実は全部同じ話、
「人間から生まれていない人間らしきものと、
人間の違い」
についての話なのだ。
数学で、Xというのを習ったね。
人工知能、ロボット、人造人間、人形は、
それぞれ、
X=1, 2, 3, 4…のそれぞれの具体の話をしているにすぎず、
それらは全てX、人らしきものの話であるにすぎないわけだ。
つまり、中身とはガワの具体に対して、
抽象度が上がっているわけなのだ。
さらに中身をのぞいていこう。
人らしきものと人との間の話は、
異民族ものになる。
つまりたとえば黒人に人権はあるか、
黒人に知性はあるのか、
黒人と恋愛はできるか、
と同じ話になる。
僕は差別主義ではなく、
歴史的にこういう物語が書かれた、
ということを言っているだけなのでご注意。
異民族ものでいうと、
「ダンスウィズウルブズ」の、
「人間」と「インディアン」の異民族ものがあったね。
これと全く中身が同じ話が、
「ラストサムライ」である。
異民族の中に入った主人公が、
その異民族の誰かと理解しあい、
異民族の一員になる話だ。
インディアンと日本人は、アメリカ人から見て、
あんまり変わらないんだろうね。
民族違いでしかないのだろう。
ちなみに、このXに、宇宙人を代入することもできる。
宇宙人との恋愛というモチーフに大抵なる。
あるいは、異民族同士の戦争、
というストーリーになることもある。
スタートレックのテレビ版ではそういう話が多かったが、
このXは、移民という外国人に置き換えることが出来ることに、
注意されたい。
さて、Xの範囲がどんどん広がってきたね。
Xとは究極的になんだろう。
つまり、「他人」なのだ。
一番抽象度を上げると、
「他人との話」というストーリーなのである。
つまりは、
「他人と出会い、
その差が許せなかったり、怖がったりするが、
理解を深めていくうちに、
同じところがあるとわかり、
理解が進む、
しかし同胞が反発し、
許せないとなって追われる身になる。
むしろ同胞こそが最初に思っていた「他人」に思えてしまう」
というストーリーがあるわけだ。
この他人Xは、
異民族でも、黒人でも、在日韓国人でも、
宇宙人でも、転校生でも、ロボットでも、
人工知能でも、幽霊でも、異性でも、
「私と違う何か」であれば、
何でも成立する。
これが中身である。
あとはこの中身に対して、
感情移入がうまく出来るか、
テンポがよいか、
違いをうまく描けているか、
喧嘩や交流がうまく描けているか、
同胞の方が他人ではないか、という皮肉がうまく描けるか、
などが、
「出来不出来」を決定するのである。
それが出来たストーリーに対して、
Xを、
人工知能にするのか、宇宙人にするのか、
異民族にするのか、転校生にするのか、
年齢が違いすぎる人にするのか、
ヒーリングファクターのある半魚人にするのか、
などのガワを選ぶのだ。
ガワはつまり服や顔でしかない。
骨格や肉体そのものがどうなのかが重要であり、
美人だからといって性格が悪かったり破綻しているから、
それは最低なのである。
勿論骨格標本や丸裸では全体にならないから、
感じの良いガワや、
面白そうなガワや、
いい匂いのするガワや、
流行りの服を着ることは、
とても大事ではある。
しかしあなたの描きたいものが、
たとえば人工知能だったとして、
人工知能の何を描きたいのかが大事なのだ。
それは、
人工知能が他人の人格であるように振る舞い、
その他人とどう折り合っていくかという、
Xの本質を含まない限り、
人工知能の表面を舐めただけの、
流行りの服一枚にしかならないだろう。
あなたは服飾デザイナーになりたいだけかもしれない。
それはそれで止めない。
脚本家と服飾デザイナーは、どちらが偉いとかはない。
(僕個人は脚本家のほうが偉大だと考えているが、
それは価値観の問題だ)
脚本家になることを、
服飾デザイナーになることと勘違いしていなければよいだけだ。
服飾デザイナーの技能では、
永遠に脚本は書けない。
脚本家は、そこらへんにある服を持ってきて、
中身と融合していく。
または、服を一から作ることから始めても構わない。
もちろん、他に描きたい人間ドラマが別にあり、
それに目くらましとしての、流行りの人工知能を被せる、
という戦略もある。
そして、流行りというだけでそれは凄いとか素晴らしい、
なんていう節穴もたくさんいる。
何がガワで、何が中身か、
あなたは常に分解して見ていられるか。
他人の作品もそうだし、自分の作品もそうだ。
2018年04月05日
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