2018年04月05日

ガワと中身

僕はこの話を良くするのだが、
今日は人工知能について考えてみよう。


人工知能というと、題材が面白い。
ロボットも出てくるし、sf的でもある。
なんだかトレンドにもなりつつあるし、
「人は神に似せて作られた、
人は人に似せた人形をつくる」
なんて古典的なテーマとも繋がっている。

つまり、人工知能はガワとして魅力がある。
女にたとえれば美人だ。
中身、つまり性格や考え方や生きかたはまだ分からない。
だが、ぱっと見とびつけるものである。


さて、
人工知能を使った物語は、
どういうものになるだろうか。

人間を超える知性の話になるだろうか。
人格を持つだろうか。
あるいは人格の境界の曖昧性の話になるかもしれない。
人工知能は恋するか。
人工知能は心を病むか。
人工知能は悩むのか。
人工知能は逡巡するのか。
人工知能は矛盾をつきつけられたとき、首尾一貫性をどう保つのか。

まあ、色々あるかもだ。
ちなみに、「人工知能」を「ロボット」に置き換えても、
ほとんど成立する。

僕らが育った時代はロボットだった。
冷たいマシンだが熱いハートがある、
ロボットに感情は芽生えるのか、
ロボットに人格を認めるのか、あんな怪物のようなパワーなのに、
などなどだ。
肉体がマシンだったから、
マシンのモチーフ、マシンの特徴がテーマに絡みがちだね。

で、ロボットの前は、
人造人間だったんだろう。
フランケンシュタインとか。
錬金術によるホムンクルスとか。
その前は、人形かな。
精巧な彫刻が動き出して…みたいなことか。


さて。
これらは、ガワが違う、
同じ中身の話をしていることに、
そろそろお気づきであろう。

ガワは、人工知能、ロボット、人造人間、人形と、
モチーフやマテリアルを変えながら、
実は全部同じ話、
「人間から生まれていない人間らしきものと、
人間の違い」
についての話なのだ。

数学で、Xというのを習ったね。
人工知能、ロボット、人造人間、人形は、
それぞれ、
X=1, 2, 3, 4…のそれぞれの具体の話をしているにすぎず、
それらは全てX、人らしきものの話であるにすぎないわけだ。

つまり、中身とはガワの具体に対して、
抽象度が上がっているわけなのだ。


さらに中身をのぞいていこう。

人らしきものと人との間の話は、
異民族ものになる。

つまりたとえば黒人に人権はあるか、
黒人に知性はあるのか、
黒人と恋愛はできるか、
と同じ話になる。

僕は差別主義ではなく、
歴史的にこういう物語が書かれた、
ということを言っているだけなのでご注意。

異民族ものでいうと、
「ダンスウィズウルブズ」の、
「人間」と「インディアン」の異民族ものがあったね。
これと全く中身が同じ話が、
「ラストサムライ」である。
異民族の中に入った主人公が、
その異民族の誰かと理解しあい、
異民族の一員になる話だ。

インディアンと日本人は、アメリカ人から見て、
あんまり変わらないんだろうね。
民族違いでしかないのだろう。
ちなみに、このXに、宇宙人を代入することもできる。
宇宙人との恋愛というモチーフに大抵なる。

あるいは、異民族同士の戦争、
というストーリーになることもある。
スタートレックのテレビ版ではそういう話が多かったが、
このXは、移民という外国人に置き換えることが出来ることに、
注意されたい。


さて、Xの範囲がどんどん広がってきたね。

Xとは究極的になんだろう。
つまり、「他人」なのだ。

一番抽象度を上げると、
「他人との話」というストーリーなのである。

つまりは、
「他人と出会い、
その差が許せなかったり、怖がったりするが、
理解を深めていくうちに、
同じところがあるとわかり、
理解が進む、
しかし同胞が反発し、
許せないとなって追われる身になる。
むしろ同胞こそが最初に思っていた「他人」に思えてしまう」
というストーリーがあるわけだ。

この他人Xは、
異民族でも、黒人でも、在日韓国人でも、
宇宙人でも、転校生でも、ロボットでも、
人工知能でも、幽霊でも、異性でも、
「私と違う何か」であれば、
何でも成立する。

これが中身である。


あとはこの中身に対して、

感情移入がうまく出来るか、
テンポがよいか、
違いをうまく描けているか、
喧嘩や交流がうまく描けているか、
同胞の方が他人ではないか、という皮肉がうまく描けるか、

などが、
「出来不出来」を決定するのである。

それが出来たストーリーに対して、
Xを、
人工知能にするのか、宇宙人にするのか、
異民族にするのか、転校生にするのか、
年齢が違いすぎる人にするのか、
ヒーリングファクターのある半魚人にするのか、
などのガワを選ぶのだ。

ガワはつまり服や顔でしかない。
骨格や肉体そのものがどうなのかが重要であり、
美人だからといって性格が悪かったり破綻しているから、
それは最低なのである。

勿論骨格標本や丸裸では全体にならないから、
感じの良いガワや、
面白そうなガワや、
いい匂いのするガワや、
流行りの服を着ることは、
とても大事ではある。


しかしあなたの描きたいものが、
たとえば人工知能だったとして、
人工知能の何を描きたいのかが大事なのだ。

それは、
人工知能が他人の人格であるように振る舞い、
その他人とどう折り合っていくかという、
Xの本質を含まない限り、
人工知能の表面を舐めただけの、
流行りの服一枚にしかならないだろう。


あなたは服飾デザイナーになりたいだけかもしれない。
それはそれで止めない。
脚本家と服飾デザイナーは、どちらが偉いとかはない。
(僕個人は脚本家のほうが偉大だと考えているが、
それは価値観の問題だ)
脚本家になることを、
服飾デザイナーになることと勘違いしていなければよいだけだ。
服飾デザイナーの技能では、
永遠に脚本は書けない。

脚本家は、そこらへんにある服を持ってきて、
中身と融合していく。
または、服を一から作ることから始めても構わない。


もちろん、他に描きたい人間ドラマが別にあり、
それに目くらましとしての、流行りの人工知能を被せる、
という戦略もある。

そして、流行りというだけでそれは凄いとか素晴らしい、
なんていう節穴もたくさんいる。

何がガワで、何が中身か、
あなたは常に分解して見ていられるか。

他人の作品もそうだし、自分の作品もそうだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:30| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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