2018年04月06日

ガワと中身は、どっちから作るのか

中身を作ってから、ガワをかぶせるのか。
ガワをみつけて、その中身を埋めていくのか。
どっちでもいい。

僕は、
ガワ→中身→ガワ→中身
という順番を経ると考えている。


前記事の例をまた使うと、
「人工知能の話がいいな」と思うはずで、
「他人の話が書きたい」とはなかなか思わないはずだ。
人工知能に関する話を考え始めたときに、
いろいろやっていると、
「これはどうやら他人や異民族に関する話と、
同一の構造をもっているぞ」
ということに気付くわけだ。

このとき、
ガワを取り換えて、別の話を作ることも可能になる。
人工知能で考えた話だが、
実は転校生の話に書き換えられるかもしれないわけだ。
(すべての人工知能の話がそうなるとは限らない)

で、転校生の話に書き換えたほうが、
実はよりよい話に書き換えられるかもしれない。
たとえば転校生だったことがあるとか、
転校生の親友だったとか、
そういう疎外と集団の経験をしているとすると、
転校生のほうが書きやすいのかもしれないわけだ。
リアリティーとかが、
プログラミングとか、ネットがどうやってつながるのかとか、
わかってないことを書くよりも、
よっぽど生まれてくるだろう。
(もちろん、知らないことを調べて、
誰もまだ気づいていないことを知るのも面白いが)

よく「自分の体験したことを書け」
なんてアドバイスがあるが、
それは、
「他人の話」を書きたいときに、
人工知能なんて遠いことを書くくらいなら、
転校生関係の経験から拾ったほうが、
構築しやすい、
というアドバイスにすぎないわけだ。

自分の体験談を三人称フィルタを通さずに書いてしまうと、
客観性のない、独りよがりなものになってしまうことだろう。
これはおかしい、と指摘しても、
「だって私が経験したんだもの。
リアルです」なんて馬鹿なことを言う。
リアルはリアリティーとは違うのだ。

フィクションが大事にすべきは、
リアリティーであって、
リアルそのものではない。
リアルをやりたいなら、ドキュメンタリをやりなさい。
フィクションとは、
リアルっぽい嘘であることを知っておくべきだ。
どういう嘘をついて、
楽しんだり影響を受けてもらおうか、
ということを仕掛けるのが、
フィクションである。
フィクションは手記ではない。
あなたの経験を自慢したいなら、
キャバクラかホストクラブにいきなさい。


話がそれた。
ということで、
リアルを知っているジャンルの方が、
リアリティーは構築しやすい。
これは起こり得る、これはまず起こらない、
が判定しやすいからである。
人工知能であり得ないこと、よくあること、
なんてよほど詳しくないと判断できないよね。
これはたとえば難病ものとかでもおなじことだよな。

つまり、
同じ中身でも、
違うガワをまとうことが可能だ。
Xに別のものを代入するのである。

仮に人工知能の話を書こうとして、
それが他人の話であることに気付いて、
転校生の話にガワを変えようと思ったとする。
しかし、ありきたりなガワしかない、
と気づくかもしれない。
じゃあ、黒人の話にしようか、
幽霊がいいか、在日の話にしようか、
あるいは時代劇で、貧民の話にしようか、
なんて、いろいろガワを取り換えることも、
考えたほうがよい。
で、手垢のついていない、新しいガワであれば、
あなたはそのジャンルの第一人者になれるかもしれない。
そういう「新天地」を探すのが、
ほんとはいいと思う。

この時代、なんでも検索できてしまうから、
新天地は見つかりにくいかもしれない。
しかしどこかにまだ誰も手を付けていないガワがあるとおもう。
世の中、ごみはたくさんある。
その中から、ダイヤの原石を探す作業でしかないが。

ということで、
ガワ→中身→ガワ→中身
の順番になるんじゃないか、
というのが、僕の仮説だ。
2ループじゃなくて、何回か行き来することになるかもしれないが。


中身→ガワ……というやり方もあるのだろうか。
ないことはない。

たとえば、
「あたらしい勧善懲悪の物語をつくりたい」
と欲求はあるかもしれない。
「てんぐ探偵」は、そういう欲求から芽が出たもののひとつだ。
「あたらしいラブストーリーがつくりたい」
という人もいるだろう。
それは、どういう中身になるか、
先に考えてから、
どういうガワにしようかなあ、
とXの中身のバリエーションを考える行為になるかもしれない。
てんぐ探偵は天狗と妖怪と心の闇であった。


また、ガワが中身に影響を与える例もある。
当初はこういう中身にしようと考えていたが、
このガワにはこういう付随するなにかがあり、
それを中身に影響させたほうがより面白くなる、
という判断があれば、
そうやって中身を変形していってもいいだろう。
(今書いているてんぐ探偵の続きは、
天狗のガワが中身に影響を与え始めていて、
ちょっと面白いひねりになっている)


いずれにしても、
プロットに起こしたときに、
面白く、首尾一貫していれば、
作品として体をなすわけだ。
どちらから作ってもよい。
ガワが中身に影響を与えるし、逆もある。
そうやって、なにかの宇宙が出来上がっていく。
posted by おおおかとしひこ at 10:41| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
リアルとリアリティーはちがう。深いですね。これを理解かつ自覚していないと本当に大変なことになりますよね。すばらしい記事、ありがとうございます。
Posted by phan at 2018年04月07日 14:35
phanさんコメントありがとうございます。

リアルだけを追求したら、
「何も起こらない退屈な日常」が至高ということになってしまいますね。
フィクションとドキュメンタリの差を考えるには、
逆にドキュメンタリを作ってみるのもよいかもです。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年04月07日 15:59
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