2018年04月06日

プロットとは、顛末のこと

「プロットを書きなさい」と言われても、
なかなかにそれを正しく捉えることは難しい。

あらすじ、計画、骨。
ややこしくなったら、「顛末」と考えるとどうだろう。



物語は、感情とともに記憶される。

あの話は良かった、
あの話はグッときた、
あの話は泣いた、
あの話は笑った、
あの話は退屈でつまらなかった、
などなどだ。

だから、物語を書こうとする時、
「感情」をベースに書こうとするのは当然だ。

燃える、キュンとくる、盛り上がる、
ワクワクする、せつない、ゾクゾクする、
怖い、先が読めずに悶々とする、
なるほどと膝を打つ、
などなどである。

それ自体はとてもいいことで、
私たちの苦労の結晶は、
そうやって感情とともに共有され、記憶に残る。

しかしここからが重要で、
感情とは点であり線でないことに、
注意されたい。


点と線は、僕がよく使う用語だが、
点とは時間軸がないもので、
線とは時間軸があるもののことを言う。

感情には時間軸がない。
「うれしい」から「悲しい」に至る時間軸の感情を示す言葉は、
存在しない。
感情の変化はある。私たちは常にそれに晒されている。
しかし「感情と名前のついたもの」は、
変化するものではなく点である。
時間でピン留めをしたものだ。

逆に、私たちは感情が常に変化するから、
変化しないもので、
「A→B→C…」のように記述しないと、
変化を記録できないのだろう。
ABCはそれぞれ具体的な感情である。

しかし「夜明け」や、「立ち上がる」のように、
変化を示す言葉が人間にないわけではない。
これらは「動詞」を使って記述されることに注意されたい。
変化とは動きだから、動詞を使うんだね。

感情は動詞ではない。名詞や形容詞だ。
つまり時間が停止している。
感情を動詞で記述すると違和感がある。
「うれしがる」「かなしがる」などだ。
あんまり使わないね。ボキャブラリーも貧弱だ。

つまり、人にとって感情とは、
点なのだ。


一方、ストーリーとは線のことである。

人は、線を点の集団として認識する。
仮説だが、記憶の圧縮と関係していると考えられる。

「旅行は楽しかった」と、
行ってから帰ってくるまでを、圧縮するんだね。
「ああいうことがあってこういうことがあった」
などと、直後は点を線にひらくことができるけど、
時間とともにそれは忘却していく。
たとえば、「小学校の頃は良かったなあ」などのように。

(失われるという仮説と、何かをきっかけに線で思い出せることがあることから、
引き出しにくくなっているだけだという仮説がある)


で、本題。

プロットを書こうとして、
感情を書こうとして、書けなくなることがとても多い。
なんでだろう。
「なんでこういう感情になるんだっけ?」が、
不足しているからだと思う。

これを避けるためには、
「その顛末を書こう」と思うと良い。


こうこうこういうことがあって、
ああいうことになり、
こうしたことで、
「○○○」という感情になった。

という風に書いてみよう。

ちなみにこれは、小学生の作文である。

「遠足」というタイトルで、
電車に乗りました。
○○山に行って登りました。
景色が良くて、○○君が叫びました。
僕も叫びました。
お弁当は美味しかったです。
それで、遠足は楽しかったです。

と、書くようなものである。

さて、私たち大人は、
最後の「○○○」という感情を省略する。

「遠足」
電車に乗り込むところから既に非日常だ。
私たちはどこへ連れて行かれるのか、
不安とともに期待が交錯する。
山だ。私たちは山に登るのだ。
苦労した甲斐があり、頂の景色は抜群だった。
仲良しの○○君が叫ぶ。その気持ちは僕にもわかる。
僕も叫んだ。もはや人ではない、獣のように。
あ、母の弁当はご飯に汁が染みてて美味しかったです。

この作文において、
「楽しかった」という感情は使われていない。
しかし伝わるのは、「堪能した」という感情だろう。
つまりは、「楽しかった」わけだ。

これが、プロットの書き方なのだ。

「楽しい」ということを一言も使わずに、
「楽しい」を表現するのである。

それはどうやってかというと、
「顛末」を書くことでだ。

どういうことがあり、どうしたのか、
何が起こって何をしてどうなったのか。

その顛末を並べて追体験したとき、
「○○○」という点なる感情が湧くようにしていくことこそ、
プロットの本質なのである。



さあ。

あなたは今までそのようにプロットを書いていただろうか?

あらすじ?
大体の流れ?
骨格?
因果関係?
イベントの順番?
動機や目的や行動?
それもプロットの構成要素だ。

しかし一番大事なことは、
線によって最終の点、○○○が見えるかどうか、
なのである。


面白いプロットと、つまらないプロットの差はなにか?
それは、その顛末を追体験することで、
○○○になるかどうかなのだ。

自然にそうなれば良くできたプロットだ。
全く何も湧いてこないなら、つまらないプロットだ。


さらに高みの話を。
私たちの知っている言葉で○○○が埋まるべきだろうか?
それに的確な言葉が日本語にはないが、
おおむね○○○や×××に近い感情だけど、
この顛末でしか表現できないなにか。
そうなるのが理想。

でも最初は、
「楽しい」とか「感動」とかにしておくと、
遠足の顛末のように書きやすいはずで、
そもそも狙った○○○に落とさないやつが、
的確な文章なんて書けるわけがない。


さあ、あなたのプロットは、どういう○○○になるの?
その顛末を書きなさい。
posted by おおおかとしひこ at 11:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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