2018年04月18日

プロの現場から2: ガワと中身

この記事から常体に戻す。

これまで僕は、ガワと中身のことについて、
色々と言及してきた。
「なにがガワで、何が中身なのか」
についていい例ができたと思ったので、
今回具体的に取りあげるわけだ。

「できあがったものから、どんどんベールをはいでいこう」
という趣向でお楽しみください。


上がりについてよく言われるのが、
「じいさんの最後の表情がいい」だ。
これは、
感情移入ができているからそうなのだ、
ということにまず注目されたい。


もし初見で、
単独でこのじいさんのラストの顔芸を見たとしても、
なんとも思わないだろう。
なんでこんなに歪んでんだよ、
とかしか思わないかもしれない。

ところがストーリーを見た我々は、
これがじいさんの「生きる意志」であることがよくわかっていて、
しかも孫が不器用なりに応援していることから、
これが人間賛歌であることは了解している。

だから、
どんなに汚い顔でも、
左右が歪んでいても、
それは美しいのである。
これが「モンタージュ効果」である。


単独では「汚いじじいのアップ」にしか過ぎないものが、
それ以前を足されることによって、
「人間の可能性を感じさせる、
ドラマチックな瞬間」に化けるのである。

「感情は点で、物語はそこに至るまでの線」
であったことを思い出そう。
モンタージュとは、
つまり点で線を構成していく方法論のことだ。

点だけでは存在意義がない、
わずかばかりのものを用いて、
それが線をなして因果関係をもち、
それらがパーツになって有機的な機能を持った時に、
まったく別のシステムができる、
というシステム論のことを、
モンタージュ効果は言っているのである。

わかりにくければ4コマ漫画を思い浮かべるとよい。
起承転結と意味があるから、4コマ漫画は意味があるのであり、
ばらばらに存在していては、
意味をなさないものになってしまうということがわかるだろう。
1234を並び替えて、
4213や3124や、
1のみや24のみとかにしては、まったく意味をなさなくなる。
1234の組み合わせだけが、
ストーリーと呼ばれる因果関係になるわけだ。

なにがいいたいかというと、
「じいさんのアップ」はとても良いが、
それは点にすぎず、
ほんとうはその前の線こそが、
僕の仕事ということである。


さて。
そろそろベールをはがしていこう。

もしこのじいさんがこの役者でなかったとしたらどうだろう?
想像してみよう。

あなたのじいさんでもいいし、
役者でもいい。
たとえば山崎努がいいかな。
寺尾聡、黒部進、岸部一徳、故大杉蓮
だとどうだろう。
(ちなみにこれらの役者は、
いくらでもお金が使えるなら、
という想定のもとで出したキャスティング案だ。
ちなみに僕が出した第一候補は千葉繁。
このマニアックわかるかなあ)
あるいは内田裕也のような、とがったじいさんでも面白いよね。
北野武でもいい。

いろいろなじいさんの芝居が想像できるかと思う。
しかしどの役者になったとしても、
「ラストの表情」は印象的に残るものに、
必ずなる。
なぜかというと、
ストーリーがあるからである。

半身不随になったじいさんが、
リハビリのためにひたすら頑固に頑張っていて
(ちょっと嫌われ気味ですらある)、
それはなぜかというと、
同世代でオリンピックに出た法華津選手を心の支えにしていて、
それを知った孫が、
小憎らしいいたずら、応援歌を刻んだ、
というストーリーは、
誰が演じても同じだからである。

だから、
「生意気言いやがって(その裏ではうれしい)」
という意味の「ふん」と、
そのあとの必死の立ち上がる瞬間は、
誰が演じてもドラマチックになり、
かつ「あの最後の表情がいいよね」
になるはずである。


つまり、役者はガワである。

中身がストーリーで、
役者それぞれの演技はあるものの、
役者はその味付け、出口違いになる程度で、
ストーリーの本質は変わらないわけである。


さて。
ではこのコンテと、それ以前の脚本を見てみよう。
(クリックで画像拡大)
Man_and_Horse_1.jpg

Man_and_Horse_2.jpg


人馬一体.pdf

コンテになると役者の個性は消される。
「どの役者が来ても、いい話になる」
ということが保証されていることがわかると思う。

さらに。
脚本状態だと、
絵(アングル)やカット割りや、テンポという、
ガワが消される。

これらがなくても同一のストーリーであり、
どんな絵が来ても、どんなテンポでも、
どんなカット割りでも、
そしてどんな役者が来ても、
(一定以上のプロの技量が保証されれば)
「いい話になる」ことが、
保証されていることが理解できると思う。

つまり、絵や役者は、この上にかぶせられたガワであり、
どんなガワを被せたとしても、
同じ中身であることを保証するのが、
脚本の書くストーリーなのである。

脚本家は、
「頭の中に思い浮かんだもの」を文字に書くのではない。
素人はそう思ってしまい、
「山崎努のようなじいさん」とか、
「アップで力強いスローモーション」などと、
ガワに属することを書いてしまう。

そうではない。
どのようなガワが来たとしても、
話として成立する、
その話の中身を書くことが脚本である。
つまり脚本家は、
一度自分のイメージを咀嚼して、
ガワを巧妙に取り除き、
中身だけを剥き出しにして、
決してガワを文字の中に混ぜないように、
中身だけを純粋に書くのが仕事である。




同様に、「公開ヘアバンド」でも議論しておこう。


この役者は二人ともかわいい。
かわいい女の子は正義だが、
仮にブスだとしよう。

それでも、
ブスがブスなりに、
隠れずに生きていこうと決意して行動する様は、
私たちの胸を打つと思う。

むしろ、ブスが美しく見える瞬間になると思う。

顔じゃなくて、
生き方が美しいからである。

つまりかわいいこの二人の女の子は、
ガワにすぎない。
女の子二人が美しいのではなく、
行動が美しいからである。

ちなみに、わざと、
「似合わないヘアバンド」を用意した。

スタイリストは職業柄、
衣装とよくコーディネイトされたヘアバンドを用意したがる。
この場合、プロポーズする側が水色のヘアバンド、
される側が黄緑やイエローのヘアバンドだったら、
良く似合って絵が美しくなることは想像できるだろう。

しかし、
「わざと似合っていない(ダサい)」
ヘアバンドを用意した。
それは
「あまりにも必死で、家からひっつかんできた感じ」
を出すことと、
「それでも美しく見える瞬間」ということをやりたかったからである。
だから、写真で見るとダサいヘアバンドである。
ラストカットで一時停止して、見てみるといい。

しかし我々は、
ストーリーのモンタージュ効果を経ているので、
それが美しく見える。

これがフィルムマジック、
ストーリーの魔法である。


自信がなくて、しかもレズであるから、
前髪に隠れるように生きてきた女の子が、
それを指摘され「気にしない」と強がっても、
いざというときには周りを気にしてしまい、
嘘をついたばかりか、
一番大事にしなければならない大切な人も傷つけ、
レズビアンの公開プロポーズを見て思い直して、
前髪を上げて公開の場でプロポーズする、
というストーリーを経れば、
どんなヘアバンドやブスだとしても、
美しく見えるものである。

つまり、かわいい役者や衣装はガワにすぎない。

(ちなみに、もっとべたにしていくなら、
ヘアバンドでなくて、
はさみでジョキリと切る、というのがあるだろうね。
ざんばらになってしまった髪同士で、
デコをキスのようにくっつけるのは、
美しい絵になっただろう。
しかし女優の髪を切るのは、
予算的にハードルが高かった)



では同様に、
コンテと脚本を見てみよう。
(同様に、画像クリックで拡大)

Hairband_1.jpg

Hairband_2.jpg


公開ヘアバンド.pdf


ロケーションの効果についても考えよう。
なかなかおしゃれなカフェであった。
駅前の感じもなかなかちょうどいい距離感であった。
電車がいいよね。

しかしそれらはガワにすぎない。
コンテや脚本を読めば、
それが関係なく筋の通った話であることは、
理解できるはずだ。


これが、
僕のいう中身の例である。

中身はストーリーそのもので、
絵や役者やロケーションはガワだ。

ほとんどの人は、
中身とガワを分離できないから、
「ひとつのもの」としてフィルムを見てしまう。
素人ならそうでよい。
しかし我々はプロ(またはその予備軍)だ。
分離して組み合わせることが出来なければならない。

そしてその組み合わせをコントロールすることで、
最善の組み合わせを見つけていかなければならない。

その組み合わせを考え、
ガワがどう来ても良くなるような中身を考えるべきで、
さらにいうと、
「中身がいいのでガワで遊べる余裕がある」のがベストだ。



さて次回は、
ガワの大きな要素、
音楽について述べてみよう。
posted by おおおかとしひこ at 12:10| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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