2018年04月21日

プロの現場から5: メアリースー退治

メアリースーの原因は、「自分」を描いてしまうことにある。
だから僕は、
「自分を描いてはいけない」と口酸っぱく言っている。


映像による物語は、
三人称である。

演劇をベースにつくられた、映画というものは、
あかの他人が演じるものである。

本人が出てきて、本人の秘話を語る形式ではない。
あかの他人が「その役」を演じる、
という形式である。

三人称ということは、
他人と他人が織りなす話、
という形式のことであり、
そこに一人称、つまり「わたし」は出てこない。

演劇や映画の途中に、
「実はこれ、わたしの経験した実話なんですよ」
と作者が出てくることはあるだろうか。
それは厳しく禁止されている。
なぜなら混乱するからである。
架空の世界で進むことが前提のものを、
ぶち壊しにしてしまうからだ。

つまり三人称の世界に、
一人称の世界が混入することはない。

かつて意図的に混入させる実験が80年代にはあった。
ウッディアレンがそうだ。
ウッディアレンは、
作品の中にその役ではなく、
ウッディアレンとして登場することがある。
実験としては面白かったが、
現在これは一般的ではない。
やはり現実を考えて冷めてしまう、ということが大きいからだ。
ガッキーと星野源は、
ドラマの中で恋人であってほしくて、その世界がいいのに、
現実に隣のマンションに住まれても、
なんだかばつが悪いのである。
もし二人が付き合っていたとして、
その二人としてドラマに出演していたらどうだろう。
気持ち悪いだけだ。

これはこれ、それはそれ、
とわけてほしくなる。
それがフィクションである。

つまり、フィクションのルールとは、
「現実を持ち込まない」ということなのだ。

架空の世界で起こっていることに、
我々は夢中になりたいのだ。
現実をそこに持ち込んではいけないのだ。
(逆に、そこを持ち込んで、
いかにも良さそうに見せる詐欺は後を絶たない。
あの偉そうな沢尻エリカが脱ぐ、
という触れ込みの「ヘルタースケルター」は、
現実と虚構の使い方を間違った代表である)


だからフィクションのストーリーというのは、
あかの他人と、あかの他人が、
なにかをする架空の世界でなければならない。

他の第三者が織りなすから、
三人称というのである。

メアリースーの原因は、
そこに一人称(=わたし)という現実を持ち込んでしまうことにある。



メアリースー現象特有の症状を示す。

・主人公はなんにもしないのに、いろんな人に愛されている。
・主人公はなんにもしないのに、いろんな人にサービスされつづける。
・むしろ主人公はダメ人間である。
・逆にそれでは辻褄があわないから、最強の能力者とか、
 すごい人、という設定が付加されることがある。
・主人公はいろいろおぜん立てされつづけ、最後にひとつだけ重要な行動をする。
 行動といってもたいしたことはしなくて、
 ちょっと右のものを左に動かすとか、電話をかける程度だったりする。

これは三人称の物語ではない。

これを脚本に書いてしまうと、
「最初から何もしない人が、ずっとつらい状態に置かれていて、
しかしずっと周りからなぜか構われて、
最後にちょっとした決断や行動に出ておしまい」
というものになる。

この型を僕は「落下する夕方」テンプレと呼んでいる。
同名の映画がその語源だ。

これは伝統的な三人称の形式、
「動機をもって起こした行動と、それによる波紋を描き、
最終的に、その結末の責任をうまくとる」
とは大きく異なるものになる。

なぜなら、
三人称形式では行動が中心に描かれ、
そのリアクションや波紋という展開が中心になるのに対して、
メアリースーでは、
「大半がなにもせずに構われているだけ」
になるからである。
動機も行動もないのである。

だからつまらない。
「なにも起こらない」からだ。

(起こる、とは、取り返しがつかないことが起こることをいう。
構われているだけでは、時間軸が進まない)

なぜこうしたつまらないものが、
堂々とプロとして書かれてしまうのか。

その原因が、
「自分を書いてしまう誤謬」ではないか、
というのが僕の説である。


自分を主人公だと勘違いするから、
自分は構われたい。
つらい愚痴を聞いてほしい。
自分は楽したい。
自分はただなにもしなくても愛されたい。
相手が全部用意してくれていて、
あとはちょっとした簡単なやつをやるだけでいい。
簡単で楽な行動をして、自分がやった感は出したい。
大半はおぜん立てしてもらって、おいしいところだけやって、
主役として目立ちたい。

こういうことを堂々と書いてしまうのだ。

文字にすると、
「なにおまえ甘えてんだ」
ということになるが、
自分のことだから、甘えていることは不問にしてしまう。
主人公が他人でなく自分だと勘違いすると、
いくらでも甘えてしまうのである。

物語の作法では、
主人公を逆境に追い込め、というセオリーがある。
そこからの脱出こそ物語であるからだ。
しかし主人公が自分だと、
「そんな大変なことはしたくない」ので、
都合よくうまいこと誰かがおぜん立てする、
というストーリーを描きがちなのだ。

それはストーリーではない。
三人称の、あかの他人の面白いストーリーではない。

ストーリーとは、
「あかの他人が、いかに逆境を脱するか」
という、いわばSが見て楽しむものである。
「他人の観察」だからだ。

あなたはそれを書くときに、
他人を追い込まなくてはいけないのに、
自分と勘違いして、自分を追い込んでしまおうとする。
これが間違いである。
よほどのMでない限り、
楽するに決まっている。
どMなら、逆境へ逆境へいくかもしれないけど。


メアリースーの正体は、
「楽をしたいわたし、
それでいて注目を浴びたいわたし、
主役に都合よくなりたいわたし」である。

それを三人称形式で出さなければいいだけの話であるのに、
それを堂々とかいてしまい、
「なに甘えてんだ」と批判の矢にさらされることになる。
(昨今では、牛乳石鹸のWebCMがそうであった)


さて。
もとの企画コンテはどうだったか。

メアリースーそのものだ。

本人だけがつらいと思っている状況で、
なぜか品のいいおばあさんから話しかけられ、
なぜかうまい解説をされ、
なぜかあなたもどう?みたいに勧誘され、
最後にちょっとだけ行動する。

本人だけがつらいと思っている状況で、
なぜか都合よくオリンピックで状況好転のきっかけを与えられ、
なぜか相手の方からよりを戻そうとしてくる。
行動はメール一本程度だ。

自分なら気持ちいいが、
他人がこんなご都合に生きていたらむかつく。
それが人間だ。
この主人公、オレなんすよ、
と言ったら、大岡はなにを甘えているんだ、
ということになるはずだ。
人間は、自分は甘えたいが、
他人が甘えているのは許せない、
ダブルスタンダードの中で生きている。
メアリースーはその混同である。




メアリースー退治は簡単である。

自分は甘えていると自覚すること。
その自分は主人公にしないこと。
他人を主人公にすること。
その他人が甘えてきたら、容赦なく谷底に叩き込むこと。

つまり、他人を追い込み、行動させ、
その波紋の責任を取らせること。

あなたは行動しなくてよい。
他人が行動するのである。
なぜか? それがその人なりの動機というものだ。

ストーリーには動機が必要、ということは、
動機のない行動なんてただの通り魔でしかないからで、
その先の責任が取れないからである。

その他人が、
まず最初に行動するのが、ストーリーの始めである。
1/4より前にするべきであるといわれている。
(今回は短編なので、状況設定に時間がかかった)

メアリースーは最後にしか行動しない。
しかも楽なやつしかね。



ということで、今回の企画は、
なにもかも「ストーリー」ではないものであった。
三人称でもないし、客観的でもないし、
泣けるストーリーでもない。
甘えん坊のメアリースーであったからである。

俺は赤ん坊のあやし係じゃねえんだ。

これをここまでちゃんとしたものにした僕の功績は、
もっと認められてもいいのだが、
そこをわかって評価する人はあまりいないので、
ここまで書いてみたわけだ。


この手術は、諸君の参考にされたい。



で。

なぜこうしたメアリースーが簡単にはびこり、
なかなか退治されないのか、
ということを問題にしよう。
甘えたやつが多いからだ、という根性論はおいといて。

僕の仮説は、
メアリースーを助長することが、
広告の本質ではないか、
ということだ。

続きます。
posted by おおおかとしひこ at 12:20| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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