メアリースーの原因は、「自分」を描いてしまうことにある。
だから僕は、
「自分を描いてはいけない」と口酸っぱく言っている。
映像による物語は、
三人称である。
演劇をベースにつくられた、映画というものは、
あかの他人が演じるものである。
本人が出てきて、本人の秘話を語る形式ではない。
あかの他人が「その役」を演じる、
という形式である。
三人称ということは、
他人と他人が織りなす話、
という形式のことであり、
そこに一人称、つまり「わたし」は出てこない。
演劇や映画の途中に、
「実はこれ、わたしの経験した実話なんですよ」
と作者が出てくることはあるだろうか。
それは厳しく禁止されている。
なぜなら混乱するからである。
架空の世界で進むことが前提のものを、
ぶち壊しにしてしまうからだ。
つまり三人称の世界に、
一人称の世界が混入することはない。
かつて意図的に混入させる実験が80年代にはあった。
ウッディアレンがそうだ。
ウッディアレンは、
作品の中にその役ではなく、
ウッディアレンとして登場することがある。
実験としては面白かったが、
現在これは一般的ではない。
やはり現実を考えて冷めてしまう、ということが大きいからだ。
ガッキーと星野源は、
ドラマの中で恋人であってほしくて、その世界がいいのに、
現実に隣のマンションに住まれても、
なんだかばつが悪いのである。
もし二人が付き合っていたとして、
その二人としてドラマに出演していたらどうだろう。
気持ち悪いだけだ。
これはこれ、それはそれ、
とわけてほしくなる。
それがフィクションである。
つまり、フィクションのルールとは、
「現実を持ち込まない」ということなのだ。
架空の世界で起こっていることに、
我々は夢中になりたいのだ。
現実をそこに持ち込んではいけないのだ。
(逆に、そこを持ち込んで、
いかにも良さそうに見せる詐欺は後を絶たない。
あの偉そうな沢尻エリカが脱ぐ、
という触れ込みの「ヘルタースケルター」は、
現実と虚構の使い方を間違った代表である)
だからフィクションのストーリーというのは、
あかの他人と、あかの他人が、
なにかをする架空の世界でなければならない。
他の第三者が織りなすから、
三人称というのである。
メアリースーの原因は、
そこに一人称(=わたし)という現実を持ち込んでしまうことにある。
メアリースー現象特有の症状を示す。
・主人公はなんにもしないのに、いろんな人に愛されている。
・主人公はなんにもしないのに、いろんな人にサービスされつづける。
・むしろ主人公はダメ人間である。
・逆にそれでは辻褄があわないから、最強の能力者とか、
すごい人、という設定が付加されることがある。
・主人公はいろいろおぜん立てされつづけ、最後にひとつだけ重要な行動をする。
行動といってもたいしたことはしなくて、
ちょっと右のものを左に動かすとか、電話をかける程度だったりする。
これは三人称の物語ではない。
これを脚本に書いてしまうと、
「最初から何もしない人が、ずっとつらい状態に置かれていて、
しかしずっと周りからなぜか構われて、
最後にちょっとした決断や行動に出ておしまい」
というものになる。
この型を僕は「落下する夕方」テンプレと呼んでいる。
同名の映画がその語源だ。
これは伝統的な三人称の形式、
「動機をもって起こした行動と、それによる波紋を描き、
最終的に、その結末の責任をうまくとる」
とは大きく異なるものになる。
なぜなら、
三人称形式では行動が中心に描かれ、
そのリアクションや波紋という展開が中心になるのに対して、
メアリースーでは、
「大半がなにもせずに構われているだけ」
になるからである。
動機も行動もないのである。
だからつまらない。
「なにも起こらない」からだ。
(起こる、とは、取り返しがつかないことが起こることをいう。
構われているだけでは、時間軸が進まない)
なぜこうしたつまらないものが、
堂々とプロとして書かれてしまうのか。
その原因が、
「自分を書いてしまう誤謬」ではないか、
というのが僕の説である。
自分を主人公だと勘違いするから、
自分は構われたい。
つらい愚痴を聞いてほしい。
自分は楽したい。
自分はただなにもしなくても愛されたい。
相手が全部用意してくれていて、
あとはちょっとした簡単なやつをやるだけでいい。
簡単で楽な行動をして、自分がやった感は出したい。
大半はおぜん立てしてもらって、おいしいところだけやって、
主役として目立ちたい。
こういうことを堂々と書いてしまうのだ。
文字にすると、
「なにおまえ甘えてんだ」
ということになるが、
自分のことだから、甘えていることは不問にしてしまう。
主人公が他人でなく自分だと勘違いすると、
いくらでも甘えてしまうのである。
物語の作法では、
主人公を逆境に追い込め、というセオリーがある。
そこからの脱出こそ物語であるからだ。
しかし主人公が自分だと、
「そんな大変なことはしたくない」ので、
都合よくうまいこと誰かがおぜん立てする、
というストーリーを描きがちなのだ。
それはストーリーではない。
三人称の、あかの他人の面白いストーリーではない。
ストーリーとは、
「あかの他人が、いかに逆境を脱するか」
という、いわばSが見て楽しむものである。
「他人の観察」だからだ。
あなたはそれを書くときに、
他人を追い込まなくてはいけないのに、
自分と勘違いして、自分を追い込んでしまおうとする。
これが間違いである。
よほどのMでない限り、
楽するに決まっている。
どMなら、逆境へ逆境へいくかもしれないけど。
メアリースーの正体は、
「楽をしたいわたし、
それでいて注目を浴びたいわたし、
主役に都合よくなりたいわたし」である。
それを三人称形式で出さなければいいだけの話であるのに、
それを堂々とかいてしまい、
「なに甘えてんだ」と批判の矢にさらされることになる。
(昨今では、牛乳石鹸のWebCMがそうであった)
さて。
もとの企画コンテはどうだったか。
メアリースーそのものだ。
本人だけがつらいと思っている状況で、
なぜか品のいいおばあさんから話しかけられ、
なぜかうまい解説をされ、
なぜかあなたもどう?みたいに勧誘され、
最後にちょっとだけ行動する。
本人だけがつらいと思っている状況で、
なぜか都合よくオリンピックで状況好転のきっかけを与えられ、
なぜか相手の方からよりを戻そうとしてくる。
行動はメール一本程度だ。
自分なら気持ちいいが、
他人がこんなご都合に生きていたらむかつく。
それが人間だ。
この主人公、オレなんすよ、
と言ったら、大岡はなにを甘えているんだ、
ということになるはずだ。
人間は、自分は甘えたいが、
他人が甘えているのは許せない、
ダブルスタンダードの中で生きている。
メアリースーはその混同である。
メアリースー退治は簡単である。
自分は甘えていると自覚すること。
その自分は主人公にしないこと。
他人を主人公にすること。
その他人が甘えてきたら、容赦なく谷底に叩き込むこと。
つまり、他人を追い込み、行動させ、
その波紋の責任を取らせること。
あなたは行動しなくてよい。
他人が行動するのである。
なぜか? それがその人なりの動機というものだ。
ストーリーには動機が必要、ということは、
動機のない行動なんてただの通り魔でしかないからで、
その先の責任が取れないからである。
その他人が、
まず最初に行動するのが、ストーリーの始めである。
1/4より前にするべきであるといわれている。
(今回は短編なので、状況設定に時間がかかった)
メアリースーは最後にしか行動しない。
しかも楽なやつしかね。
ということで、今回の企画は、
なにもかも「ストーリー」ではないものであった。
三人称でもないし、客観的でもないし、
泣けるストーリーでもない。
甘えん坊のメアリースーであったからである。
俺は赤ん坊のあやし係じゃねえんだ。
これをここまでちゃんとしたものにした僕の功績は、
もっと認められてもいいのだが、
そこをわかって評価する人はあまりいないので、
ここまで書いてみたわけだ。
この手術は、諸君の参考にされたい。
で。
なぜこうしたメアリースーが簡単にはびこり、
なかなか退治されないのか、
ということを問題にしよう。
甘えたやつが多いからだ、という根性論はおいといて。
僕の仮説は、
メアリースーを助長することが、
広告の本質ではないか、
ということだ。
続きます。
2018年04月21日
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