最近の広告は、僕が憧れた広告からすると、
かなりレベルが下がっている。
僕は広告業界に入ったことに誇りを感じていたが、
最近はそう言うのが恥ずかしい。
同じレベルと思われるのは心外だ。
かつては文化レベルの広告が多かった。
サントリーオールドの、
「恋は遠い日の花火ではない」は好きだった。
いまはそうでないものばかりだ。
メアリースーの原因は、昨今の(レベルの低い)広告のせいではないか、
という仮説をぶち上げることにする。
簡単なことだ。
広告は、「メアリースーを助長するように作る」
からである。
つまり、
「あなたは苦労しなくていいのです。
こういう困ったことがあるでしょ?
あなたは苦労する必要はありません。
私たちがあなたを神様のように愛していますから、
そんな苦労させるわけないですよ。
最後にちょっとだけ行動するだけでいいんですよ。
電話をかけるとか、ネットに登録するだけとか、
お金をちょろっと払うだけでいいんです」
というのが、
ほとんどの広告の正体であるからだ。
広告というのは、
人々の甘えにつけこんでいるのである。
もし広告が、
「ブラインドタッチを習得したい?
たしかにそれはとても便利で合理的だ。
そうだ薙刀式をしたまえ。
まず3時間は集中せよ。あとは一か月やれ」
というものであったら、
そんなメンドクサイものはしないよ、
というだろう。
ほかにみんなこのように真実を語っていたとしても、
「1時間で親指シフトをマスターする方法!」
なんて楽なものが現れたら、
みんなそっちへ行ってしまう。
「楽をしたいわたし」だからである。
誰も、苦しい筋トレはやらない。
よほど意識の高い人しかやらない。
しかしそれがほんとうに大事なら、
辛いことは筋肉をつけることと同じである。
(ライザップだけが逆張りで目立っているわけだ。
だからといって誰もがやるわけではない)
ここを読んでいる人は脚本を書きたい人であろうが、
僕はつねに「数をかけ」というスパルタを提唱している。
しかし、
「一日15分で、一週間で出来るようになる方法を、1万円で教えます!」
というのがあったら、みんなそっちへ行くに違いない。
学問に王道なしであるのはわかっているのに、
ついつい「安易に金で努力は買える」と思わせるのが、
たくみな広告というものだ。
つまり、「あなたは苦労しなくていいですよ」
というメッセージを出し続けるのが広告なのである。
これは三人称のストーリーと、
真逆である。
だからメアリースーが蔓延するのである。
答えは簡単だ。
「世の中にそんなにうまい話があるわけがない。
努力して改善する以外に王道はない」
ということでしかない。
逆に広告で売る商品とは、
「チートアイテム」「ショートカットアイテム」
を売ろうとしているのである。
チートやショートカットなどなく、
努力や行動でしか人生は変えられないと、
僕は思う。
ライフハックなんてない。
多少のことはあるかもしれないが、
ほんとうにはないと思う。
ここから女差別をする。
女は、「男に人生を変えてもらいたい」と思っている。
自分から変わる苦労をするのではなく、
変えてもらいたいと、他人にあずける。
なぜなら自分が愛されているからである。
これは、広告がつけこむメアリースー構造そのものだ。
男は裏切るが、商品は裏切らない、
という文法をつかえばいいのである。
まあ女だけでなく、最近のだめな男もそうだから、
女の特性とはいえない。
しかし女のほうがそういう人が多いのはたしかだ。
(僕はよく女差別をするが、バカな女が嫌いなだけで、
賢い女は大好きだ。女の嫌なところが嫌い、
とでも言っておこう)
で。
元の企画に戻ると、
このメアリースーはバカな女なのだ。
つまり、
「ただ理由もなく愛されて、
なぜかおぜん立てされて、
都合よく主役になりたくて、
やることが簡単なことで、
大勝利したい」という願望そのものなのである。
リハビリしたくない、
なぜか話しかけてくる、
別れたのになぜかよりを向こうから戻してくる、
そういう甘えた願望なのだ。
広告は、そういう甘えを容認し、
助長する。
金さえ出せば、その甘えを実現するよ、
というメッセージとともに。
これは悪魔の所業である。
自覚しようとするまいと。
僕は、すべての広告がそうであるとは思っていない。
そういう甘えを許すもの以外も、
広告になると考えている。
それが文化たる広告のレベルであると考えている。
そもそもこの企画を立てた人間が、
広告のこうしたメアリースー的な部分に無自覚で、
しかも自分のメアリースーにも気づいていないのが、
おかしいと僕は思うわけだ。
しかしそのおかしさを言うのに、
大体一万字以上かかるので、
僕は現場で自分の意見を曲げない、
こわい監督でいるしかない。
飲みにでも行けば説教出来るけど、
間に立つプロデューサーは説教なんてとんでもない、
仕事を失うことになる、
と僕を同席させないわけだ。
この構造自体が甘えを保存することになっている。
さて。
だから、こういうメアリースー型の広告なんて、
馬鹿でもできる。
うまいことメアリースーを引き出してやればいい。
苦労しなくていいですよ。
憧れのタレントも使ってます。
あなたは愛されています。
仲間に入ろうよ。いますぐ。
こういうことだけ一生やっていればいい。
俺はやらない。
広告はバカな女をだましている。
マーケティングによって、映画は女の見るものとされ、
広告的な手法でメアリースーを増やした。
女を差別するわけではない。
僕は賢い女は大好きだ。
馬鹿な女を増やし、そこに甘んじさせるものが嫌いだ。
映画はどうだろう。
メアリースー的なマーケティングをして、
ぐずぐずになっていっているように思う。
さっさと、目を覚ませばいいのに。
さて。
人間ドラマに戻ろう。
ドラマの総括部分、変化についてだ。
歌も小説も映画も漫画もあらゆるエンターテインメントが、メアリースーになっているように思います。
「そのままでいい」「今のままであなたは素晴らしい」
しかも、たちの悪いことに、そういう作品に限って、ミリオンセラーになったりします。正直、バカバカしくて泣けてきます(苦笑)。
広告の悪もあるのでしょうが、受けての視聴者や読者に、メアリースーが蔓延しているように思います。だから、広告はメアリースーの広告を作っているのではと。
卵が先か鶏が先かと同じなのですが、大岡さんは、どちらが先だと思われますか。広告が消費者を駄目にしたのか、それとも消費者が広告を駄目にしたのか。
また、なぜメアリースーが蔓延する時代になったと思われますか。
本物の作品に出会う機会がめっきり減って、とても残念です。
とても難しい質問ですね。
本物の男が消えちまったことと、関係あるかも知れません。
いつからか、作品は理想を語るというよりは、
受け手をあやすことを始めた気がします。
これまた誤解を呼びそうですが、
男が弱くなり、女が社会進出してからでしょう。
男は序列で語りますが、女は共感で語ります。
作品を買う人が女ばかりになったことと関係している、
と偏見込みで極論してみます。
少年ジャンプはいつからか少女ジャンプになったよな、
と揶揄されたあたりが境目でしょうか。
逆から見ると、
男を騙して金を取るより、
女を騙して金を取った方が、ぼろいということですよね。
女たちよ、お前ら舐められとるのだぞ。