2018年04月12日

キター

いつからキターって言うようになったんだっけかなあ。
2ちゃんの黎明期からだよなあ。
てことは2000年入るより前か。

なぜか人は、キターしかない。
イクーとは言わない。(エロ以外の話)

それは、行動するかしないかの差だ。


キターは、
自分から何もせずに、
向こうから良いことが来るまで、
待っている人の言葉だ。

待つな、行動せよ、なんて意識高い系では言うし、
まあその方が人生が開けるのは、
理屈ではわかる。
しかし人はそんなにポジティブで積極的でい続けることはできない。

受動的で、タナボタ待ちになるのは否めない。


人生論をやろうとしているのではない。
それは他で考えろ。

問題は、
そのようなタナボタ待ちの人を主人公にすると、
メアリースーになるということさ。

自分を書いてはいけないという、
僕の出した原則は、
大概の人はキターばかり考えて、
イクーをしてないからだね。

だから、
良いニュースがあるまで待機、
指示待ち、
ラッキーで何かが起こってばかり、
都合の良いことが連鎖する、
なぜか愛されて歓迎される、
キターばかりを書いてしまうんじゃないか。

あなたの人生が指示待ちだろうが、
とりあえず知ったこっちゃない。

あなたの書く話の主人公は、
キター待ちをしないことだ。


ラッキースケベを代表とする、
キター待ちは、
人々の安易な願望である。
いや、自分より大きな存在、
神様や阿弥陀仏(絶対他力)に任せて、
己の人生を放棄してしまうことは、
割と気持ちいいのである。
どMの人生だ。
Mの感性は「自分が求められている」という、
自己承認欲求確認の裏返しだ。
だから求められればどんなことでもする。喜んで。
必要とされていることが快感だからだ。
で、信仰は、神に求められていれば、
どんなことでもしてしまう。
思考停止は気持ちいいのである。


その木目に逆らって、
自ら積極的に行動して、
その責任を負い、
泥を被り、
なんでも自分でやり、
批判や中傷を受けながら忍耐を続け、
継続的意志を持ち、
明確でぶれず、
色々な人を巻き込み、味方にして、
そしてリスクを負って、
時に傷つき、何かを失ってでも、
ついに成功することは、
リアル人生ではなかなかに難しい。

難しいことだから、
人は物語の中のそういうものを、
憧れやモデルとするのである。

あなたは、それを書くのである。

いやいや難しいね。
キターばかりの人生の人が、
いきなりイクーを書けるわけがないわけだ。

人生経験をたくさん積んで、
イクーのリアルを書けないと、
なんだか頭の中で考えたバーチャル成功話にしか、
ならないかもしれないね。

実録物、実在の事件を題材にしたものが多いのも、
こんなイクー(行動や成功の仕方)があるんだ、
と、頭では思いつかないリアリティを知れるからだね。


繰り返すが、
あなたの人生が、
キターだろうがイクーだろうがどうでもいい。
ストーリーの中の主人公が、
イクーの人であるべきだ。
繰り返すが、エロではない。
posted by おおおかとしひこ at 12:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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