2018年04月15日

本気の魅力

今年に入って、立て続けにインド映画の最高傑作クラスを見ている。
言うまでもなく「バーフバリ(後編)」「ダンガル」だ。
「きっとうまくいく」「ムトゥ踊るマハラジャ」
もそこに加え、インド映画4大傑作ということにしよう。

もしインド映画未体験の方がいたら、
この4本を一気見することをお勧めする。
出来るだけ大音量で、映画館の音響がベスト。
以下未体験の方にも分かるようにネタバレなしで書きたい。


なぜこんなにもインド映画は面白いのか?
ハリウッドや日本映画が失った、
原始性はどこからくるのか?
僕は、「本気」がキーワードになると思う。


知り合いにインド人はいないので、
インド人の気質のリアルな所はよくわからないが、
映画の中のインド人は、
いつも本気だと思う。

本気で困り、本気で心配して、
本気で泣いて、本気で笑って、
本気で喜んで、本気で悪いやつがいて、
本気で戦う。

その真逆はなにかというと、
「リアリティ」だと思うのだ。

ほんとにこんなことあるわけがないよ、
ほんとにこんなに泣いたり嬉しがったりしないよ、
ほんとにこんなに濃い関係はないよ、
という、「冷め」が、
どこにもない。

それがインド映画の魅力である。


リアリティの追求は、
日本では浅野忠信あたりから始まった。
リアルではそんな大声出さないでしょ、
もっとボソボソいうよ、
リアルではそんなわかりやすくやらないよ、
リアルではそんな場面ないよ、
リアルではそんな設定あり得ない、
リアルでは…

予算低下もあいまって、
日本映画はすっかりリアルを売りにした、
半ドキュメンタリ状態になっている。

リアルで起こるようなことを、
有名芸能人を集めてやるだけの、
隠し芸大会になっている。


僕が育った70年代や80年代は、
そうではなかった。
梶原一騎がいたし、バブルだった。
「新しい世界を本気で作る」を、
皆がやっていた。

それは誇張や嘘が入り混じっていたが、
登場人物の感情は、
本気であったのではなかったか。

「冷め」はツッコミとなる。
本当にそんなことあるわけないだろ、
本当にそんな展開あるわけないだろ。

しかしインド映画に夢中になる我々は、
見ている途中で、
「そんなことはどうでもいい」
と思うようになる。
「ツッコムだけ野暮だ」と考えるようになる。

何故なら、ストーリーも登場人物も、
おかしいが本気であり、
それにどんどん巻き込まれていくからである。


この巻き込み力こそが、
インド映画であると僕は思う。

強く本気で信じて、
素直で本気のリアクションをして。

バーフバリで何回部下がハッとしたか。
ダンガルで何回親父が目を輝かせたか。

バタ臭いとも違う本気で素直な演技。
マサラ臭いとでも言おうか。
我々はそれでお腹いっぱいにならない。
むしろもっとくれと思うようになっていく。



インド映画と言えば絢爛豪華な歌とダンスだが、
これが登場人物を拡大して本気で表現する、
「ムービー」の最高手段であることは論を待たない。

なぜインド映画では歌って踊るのか?
「本気の表現」のひとつだからだよ?

本気で怒る、本気で幸福、本気で惚れた、
本気で頑張る、本気でわくわくする、
そうした登場人物たちの本気を、
これまた本気で作り込んだ歌と踊りで、
本気で表現するだけだ。

魂が共鳴しないわけがなかろう。


楽曲の良さがいい。
音楽の本質は、「ひとつの感情」を表現することにある。
メロディもそうだが、
出来るだけ多くの楽器を重ねて、
壮大な織物にするのが望ましい。
交響楽である。

インド映画の音楽は、
全てがインド流の交響楽になっている。
ハリウッドがオーケストラであるのと同じだ。

日本だけがギター一本とかピアノだけとかになっている。
楽器の予算がないからだ。
そして多分日本人は本気で音楽を使わない。
どこかで冷めている。
そんなバカな、とツッコムのだ。

インド映画の音楽はそうではない。
悲しいときは300%悲しい音楽をかけ、
勇ましいときは800%勇気溢れる歌を歌う。

「バーフバリ」も「ダンガル」も、
見た人は必ず、
「バーフバリ!バーフバリ!」
「ダンガル!ダンガル!」
とタイトル連呼の感想を書く。
なんでかというと、そういうタイトル連呼の場面と、
タイトル連呼の主題歌があるからだ。

主題歌でタイトル連呼するなんて、
日本では失われた文化である。
最後はそうだなあ。「ザブングル」「エルガイム」かな。
83年に失われた。
それ以前の熱き血潮が「ダンガル!ダンガル!」と叫ばせる。
ザブングルの主題歌を熱く歌える人は、
まったく同じ気持ちで「ダンガル!ダンガル!」と、
連呼して歌えるはずである。

つまり、主題歌がタイトル連呼で、
タイトルがテーマで、主題歌がテーマを歌うのだ。
最強ではないか。


日本の主題歌は、主題を歌わなくなって久しい。
タイアップという悪しき習慣により、
「内容と歌が一致していない」という悲劇が起こっている。
いつのまにか、「主題やタイトルを歌に入れることが恥ずかしい」
という風潮さえ生まれた。

これを80年代のシラケ世代という。

シラケとはまた古い言葉だが、
現代語でいえば、
「冷め」である。

そんなことあるわけないだろ、
というツッコミだ。

ここで僕は大阪人として、
こういうツッコミは間違っているという話をする。

漫才におけるツッコミは、
「そんなわけないやろ」とボケに対してツッコムのだが、
「それは間違っている」と指摘して、
冷めさせているのではない。
「リアルではこうだが、
お前のボケおもろいな!」と、
ボケを増幅する為に突っ込むのが、
本来のツッコミである。
あんこに塩を入れるのと同じだ。

ところがいつの頃からか、
東京中心のツッコミは、
「お前は間違っている」と、
「冷めさせる」ために機能し始めた。

ツッコミどころ満載、というのは、
おかしなところばかりの、間違った作品、
というような「冷め」を伴うようになった。

違うのだ。
それはツッコミではない。

突っ込むことでボケを称えなければ、
それはツッコミの資格剥奪である。

ツッコミは冷静で正しいことを言うのではない。
ボケが面白くならないツッコミなど、
ツッコミではないのである。


「バーフバリ」はツッコミだらけの作品だ。
しかし我々はツッコミ倒しているうちに、
いつのまにかその本気に巻き込まれていく。
このボケは面白いぞと。

日本人の「冷め」を覆して、
ボケは本気なのである。
だから我々は次第に、
もっとボケて!もっとツッコミたい!
と思うようになる。

間違ったツッコミから、
正しいツッコミ、すなわち、
その物語を讃えるツッコミに、
我々自身が変化していくのである。

これは正しいボケである。


同じ現象を10年前に起こした作品がある。
実写版「風魔の小次郎」だ。

原作は81年。タイトルが主題歌に入っていた時代の作品だ。
その空気を知っている僕が、
ツッコミ満載なのに、
その本気度で周囲を引きずり倒す、
ラッセル車のような大河物語をつくった。

この構造は、
インド映画に我々が夢中になることと、
まったく同じ構造をしている。

似たような作品に、実写版「アストロ球団」があるという。
残念ながら未見である。


本題に戻ろう。

バーフバリ!バーフバリ!
ダンガル!ダンガル!

インド映画の魅力は、
本気のリアクション、本気の行動、本気の感情だ。
インド人は素直で素朴で、
そして本気の人に見える。
そしてそれを、正しい音楽が1200%増幅する。

なんだよ、
一番正しいフィクション映画の在り方ではないか!



日本人はリアルとかリアリティとか、
「冷め」とかツッコミで、
フィクションの愉しみを忘れてしまった。

プロレスは八百長だからリアルじゃない、
と断罪してしまった。

インド映画は、
フィクションに騙されていた素朴な私たちを、
取り戻すことができる。

UFOや心霊写真のような怪しげなものを、
まじか!と言っていた頃と、
同じ力がインド映画というフィクションにある。


だから猛烈に面白い。


今年は「シェイプオブウォーター」に10点満点、
と思っていたが、
直後に「バーフバリ(後編)」を見て10点、
また「ダンガル」で10点と、
もう10年新作見なくていいよ、
という本気の本気ばかりを見てしまった。

お前ら勝手に冷めて生きてろ。
日本のフィクション文化が情けない。
posted by おおおかとしひこ at 12:35| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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