サビアタマは、サビから入るタイプの楽曲のこと。
Aメロ、Bメロ、サビの構造だと、
サビに来るまで時間がかかるから、
サビから始めてしまえという短絡の発想だ。
これはストーリー論から、
ストーリーを壊したのだ、といえよう。
歌謡曲は物語だとよく言われた。
つまりその物語の構造は、
さまざまな脚本理論で分析することが出来る、
ストーリーの構造をしているということである。
ストーリーというのは変化である。
最初にあったものが、
どう変化したかがストーリーだ。
Aであったものが、
全然違う、180度違ったものになるのがストーリーで、
それが良い変化である(ハッピーエンド)だからこそ、
その駆け上がりは絶頂と興奮を生むのである。
つまりは、生まれ変わるというカタルシスである。
ところが、
そのクライマックスの一番美味しいところを、
先に出してしまえというのがサビアタマだ。
クライマックスの真逆から始まる、
他のオープニングから比べると、
絶頂から入るわけだから、
目立つ。
それが歌謡曲を壊した。
CMのタイアップという事情もあった。
15秒しか使えないから、
サビがタイアップ部分になるのは確実で、
そこまで到達する3分をプレゼンするよりも、
サビアタマを先にプレゼンしたほうが、
他より目立って強力である、
という一種の戦術であった。
(かつて視聴率争いに勝つために、
7時丁度のスタートにせずに、
6:55スタートにしたようなものだ)
タイアップは決まりやすくなり、
世に流れる回数は増えたかも知れない。
しかしストーリーは壊れた。
結論からいくからだね。
ストーリーというのは、
前提、変化、結論という「順序」を必要とする。
むしろ、どういう順序を組むと面白くなるのか、
を考えるのが、ストーリーを考える、
ということに等しいと僕は思う。
サビアタマは、順序をなくしてしまった。
線であるべきストーリーを、
点に還元してしまったのだ。
もっとも、心ある人たちは、
サビアタマ、Aメロ、Bメロ、サビ、
と、ABを経てサビに行く、
ストーリー構造をちゃんと作っていた。
しかしそれもいずれ壊れて行く。
AメロBメロがかったるいから、
どんどん短くして行くことで。
つまり、
盛り上がり、たるい(短め)、盛り上がり、
というサンドイッチ構造になる。
これはストーリーではない。
「行って来い」という構造であり、
XYXの形式である。
ストーリーはXYZの構造をするべきだ。
Xがどう変化してZになったのか、
その差分こそストーリーだからだ。
「行って来い」とは、
すなわち繰り返しである。
ループだ。
だって最初に戻って来るんだから。
ストーリー、変化、という歌謡曲は、
サビアタマの出現によって、
ループ構造の、非ストーリーとなったのだ。
なぜ変化が重要なのか。
それは、私たちが限りある命の、
変化する生き物だからではないかと、
僕は考えている。
仮に永遠の命を持つ人工知能があるとして、
彼らは変化しないループミュージックを好むのではないか、
というのが僕の仮説だ。
永遠は、変化の反対語である。
この妄想の根拠は、
阿弥陀経などの仏教のお経と、
キリスト教の賛美歌である。
永遠の命である神仏を歌うこれらの歌は、
「キャラソン」である。
つまり、阿弥陀仏がどれだけすごいかというスペック表であり、
キリスト教がどれだけすごいかという自慢である。
これらは全て点であり線ではない。
前提から変化を経験しない、
どこを切っても金太郎飴のような意味構造をなしている。
つまり、ストーリーがない。
一方歌謡曲はどうか。
とりあえず前記事であげたサンライズアニメでいうと、
分かりやすい「ダンバイン」の主題歌を見てみよう。
X:オーラロードが開かれた 煌めく光俺を打つ
Y:(色々あって)
Z: 俺は戦士
「ダンバイン」は、今で言うとラノベ異世界ものだ。
なんの取り柄もない主人公が、
開いたオーラロードからオーラ世界という異世界にゆき、
オーラバトラーの操縦士になる。
最終的に、最強戦士になるストーリーである。
その大枠を、主題歌はきちんとストーリー仕立てで歌っているのだ。
「ザブングル」はどうか。
サビアタマの構造だが、しっかりストーリー構造を持っている。
X: ここは地の果て流されて俺
Y: (色々あって)
Z: 鋼の機体 野心を乗せて 風か嵐か 青い閃光
地の果て惑星ゾラに追放された主人公が、
野心を持ち青い機体ザブングルの操縦士になる話である。
Xを、ストーリーの用語でセットアップ、
Yを、ストーリーの用語でクライマックス
(場合によってはラストシーン)
という。
ザブングルもダンバインもただのロボットである。
いわば永遠の命を持つ。
だから初期のロボットアニメの主題歌は、
スペック表であった。
(10万馬力だの鉄腕アトム、
身長57m体重550tのコンバトラーV)
それが、乗り手のストーリー(変化)を歌い込むことによって、
ストーリーなる歌謡曲になったのだ。
そしてそのサビこそタイトル。
最高やんけ。
この素晴らしき構造は、
「バーフバリ」「ダンガル」においても同一である。
しかし日本の音楽の凋落は、
ストーリーの喪失、
つまりループ構造のサビアタマとともに始まって行く。
そういえばその後の小室のユーロビートは、
ずっと同じ8ビートを打ち続ける、
ループ構造であった。
キーワードは「クール」、つまり人としての感情を捨てる時代だった。
それから現在に至り、
いま日本の音楽はどうなってるんだっけ。
誰も熱心に聞いてないことだけはたしかだ。
点が人を熱くするのではない。
線が人を熱くするのだ。
変化こそがストーリーであり、
私たち変化する生き物が愛する何かである。
僕たちは、熱心になりたい。
つまり、ループ構造の音楽は、
人としての死なのだ。
2018年04月15日
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