メアリースー症候群の変形版の話。
主人公に「わたし」を入れてはいけない。
三人称のストーリーを書くときの鉄則である。
一人称なる「わたし」を三人称に混ぜてしまうと、
ひいきしてしまう。
つまり、
なぜか苦労せずに愛され、
なぜか最強で、
なぜかおいしい所だけ取っていく、
ご都合のキャラクターになってしまう。
他人なら「そんなバカな」と客観性を持てるのに、
メアリースーは「そうではない」と思い込んでしまう現象である。
これは、
「わたし」を混入させてしまうからである、
というのが僕の説だ。
わたしは苦労したくない。
わたしは愛されたい。
わたしはおいしい所だけもってって主役になりたい。
こういう願望が、不自然なご都合主義を生む。
それに気づけないのは、
わたしと他人の区別がついていないからだ。
だから主人公はわたしと関係ない「他人」にすべきである。
あなたが甘えた人物かどうかはどうでもいい。
主人公が甘えた人物にならないためには、
あなたとは違う人物である、
とあなたが自覚すればいいだけのことだ。
で、最近、その「わたし」意識と似たような、
メアリースーの在り方があることに気づいた。
「うちの子」という言い方である。
「うちの子たち」という複数形になるときもある。
恐らく女性に多い。
男子はあんまりこういう言い方はしないからね。
なんとなく母性本能のようなものが働くのだろう。
しかしつまり、これは「わたし」意識と同様の結果をもたらす。
つまり身内意識、「親バカ」である。
親バカだから、甘やかす。
この子はなぜか愛される。
(欠点すら愛される)
この子はなぜか最強。
この子はなぜか都合よくうまいこといく。
この子に苦労させない。
この子は辛くて泣いたりしない。
この子は誰の手も借りずに戦うなんて危険なことをしない。
独立心がなくても怒らない。
すぐ諦めたり、他人に全面的に助けを求めるても怒らない。
つまり、のび太になってしまう。
親バカだから、
のび太ですら可愛くなってしまい、
愛しすぎて訳がわからなくなっている。
それは客観性を欠いた状態だ。
二次創作ではよくこういうことが起こるような気がする。
二次創作というのは、
「ストーリーを語ること」が目的ではなく、
「キャラクターを愛でること」が目的のことが多いからだ。
うちの子自慢を競えばよい。
犬自慢に似ているかもしれない。
しかしそれが目的ではなく、
ストーリーを語ることが目的ならば、
この感覚は捨てるべきだ。
「うちの子」という意識ならば、
「うち」から出しなさい。
あなたは子供が独立しようとしているのに、
家に押さえつけて、いつまでも独立心を与えず、
甘やかし続け、ついにはダメな人にしてしまっている、
毒親であることを自覚することだ。
ストーリーというのは親の庇護の下では成立しない。
(ちなみにのび太は映画版だけ、ストーリーを生きている)
ストーリーというのは冒険のことだ。
親がついていってはいけないのだ。
ストーリーは授業参観ではない。
親の居ないところで起こることであり、
親をどうやって撒くか、ということから始まる。
つまりストーリーとは独立してからようやく始まる。
「他人」が家を出て、
自分の家を作り上げるまでが、
ひょっとするとストーリーかもしれない。
「うちの子」なんて意識はそこにはない。
家の中で飼っている限りは、
いつまでたっても監視である。
いつかそのキャラは反抗期を迎えるか。
親の都合だから反抗しないだろうね。
そのキャラが親に反抗し、
家を出ていってからがストーリーだ。
親はなげくだろう。あんな子じゃなかったのにと。
「あんな子」とは、いい所ばかりの面だ。
(悪い所も含め、長所に見えてしまう)
人がそんないい面ばかりでないことは、
わが身を振り返っても、他人を見ても、理解できると思う。
メアリースーとは、
自己愛が漏れてしまうことである。
親バカも自己愛の一種だ。
(心理学的には投影)
母性本能はほかの所に使ったほうがいいと思う。
二次創作でやる分にはその限りではないことは、
再び注記しておく。
ストーリーとは、
「いかにその子が手を抜いて愛されたか」ではない。
「いかにその子が人知れず苦労し、何を獲得したか」である。
親の見ていないところで、ストーリーは起こる。
あなたは醜いわが子の運動会のビデオを、
延々とうんざりしている他人に見せているだけかもしれない。
2018年04月28日
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