2018年04月27日

今全体を見てるのか、部分を見てるのか

リライトの時によくやってしまうのだが。

全体を見直そうとする時に、
部分が気になってしまい、
どんどんよれていってしまうこと。


細かいことはあとでやる。

なぜなら、
大枠がそもそも間違っていたら、
今後の細かい、膨大に時間のかかる作業は、
全て無駄に終わるからである。

そもそもの動機や大きな設定を変えることは、
大枠の変更だ。
そういうことを直すべきかどうか考えなければいけないとき、
「それが」と「それは」で迷っている場合ではない。

登場人物を削るかどうか考えなければいけない時に、
句読点の位置が気になっていてはダメだ。

「気になる」をブロックしなさい。

複数で作っている時に、
大枠を決めなければいけない時に、
細かいところが気になって、
ディテールを議論し始めるバカがいる。
大抵は「だって気になるから」と言い始める。

それはプロではない。
意図的にブロック出来る、律することが出来ないなら、
子供と同じではないか。


気になるのは、木を見て森を見てないからだ。
森の形を考えなければいけないときに、
この葉っぱの形が、
ということをしていてどうするのだ。



逆に、
木を見るべき時に、森を見てもダメだ。

このセリフはこれがベストなのか、
会話はないほうがいいんじゃないか、
改行はするべきかしないべきか、
そういうことに徹底的に悩むべきであり、
そのときに、
オープニングを変えようなどと考えていてはしょうがない。


勿論、その工程は行ったり来たりすることもある。

そのときに、
「今どっちを見るべき時で、
自分はどっちを今見ているのか」
を常に自覚しなければいけない、
ということである。



僕がリライトの時に勧めるのは、
「メモなしでただ一気読みして、
全体の印象をまず捉えて、
全体でリライトするべきかどうか考える。
そこでリライトするべき大枠を、最優先する」
という方法である。

よし、読み直そうと思うと、
細かいところが気になりだして、
ついついメモをし始めて、
森を見るべき時に木を見てしまうことが、
本当によくあるからである。


今何を見てる?
今何を直そうとしてる?
何が気になっていて、それは木か森か?


これらを自覚的にコントロール出来ないと、
リライトなんてやるだけ無駄だ。
迷宮に入るのは目に見えている。

歪な森に奇怪な葉っぱにしかならないだろう。

だったら拙い出来の第一稿が良かったってなる。

それは、あなたが木と森を見ることが下手な証拠である。
posted by おおおかとしひこ at 13:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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