2018年05月15日

何故邦画は、漫画原作実写化が止まらないのか

簡単だよ。

オリジナルの面白い脚本を作り、
面白そうに宣伝して、
回収する、
そういう仕組みが、
もうどこにもないからだよ。

あるはあるよ。すでに名のある監督はね。
彼ら以外の新しい才能にベットして、
爆死しながらも育てていく環境なんてもうない。

どこかで咲いた花を刈り取りに来て、
死ぬまでこき使うしか、
もう出来ないんじゃないかな。
本当に人類に供する、価値のあるもの。
それが芸術だと僕は思う。

その価値は、時代によって変動するし、
人によっても異なる。
文化によっても異なる。

かつてあった価値が再び評価されたり、
知らない価値を知ることで価値が輝きを増すこともある。

僕はこれを作ることが、
そもそも映画や文化の役目だと考えている。


しかしそれは、マーケティングと言い出したころから、
徐々に商売優先になって来た。

かつては、
「価値があるから売れる」だったものが、
「売れるから価値を目減りさせても良い」になり、
「売れるものかつ価値の作るものをつくろう」から、
「売れりゃなんでもいいんだよ」になってゆく。

悪貨が良貨を駆逐するというやつだ。

僕はメイキングと称して、
「それの作り方」を示すものではなく、
人気俳優のオフショットを編集するのが大嫌いだ。
それは作品メイキングではなく、
俳優の覗き見でしかない。
俳優がいかに役に立ち向かったかかは、
メイキングではあるが、
それは作品メイキングの一部に過ぎない。

それを、売れるからと称して、
メイキングの名前で売るやり方は嫌いだ。
メイキングとは言わず、
オフショット集と呼ぶのは構わない。

つまり、
本来メイキングの枠だったものが、
オフショットに駆逐されたというわけだね。

こうして、
本来スタッフを目指す人を育てるべき、
映像業界の裾野を広げる目的のメイキングは、
価値のあるのから売れるに駆逐されてゆく。


売れるものが、必ずしも価値のあるものではないことは、
qwertyキーボードを見ても明らかだ。
(これにノーを突きつける人たちが、
自作キーボードの水面下ブームを作っているのだが、
別枠の話なのでここでは突っ込まない)

じゃあさ、
「売る」ってなんなんだろうって思うのさ。


本来の価値がないが、
買いたいという別の価値を持つものを売るのが、
今の商売だ。

かつてそれは付加価値と呼ばれた。
本来の価値に加えて、付加価値分価値がある。
メイキングに加えて、オフショットもおまけで、
のようだったはず。

それがいつのまにか、
付加価値だけが一人歩きしている。


もちろん、付加価値単独で商売するには、
構わない。
堂々とスーパーオフショット集と言えばいい。
そのオフショットに対しても、
相応のギャランティを発生させればね。
(メイキングスタッフの異常なギャラの安さについては、
また別枠の話なので割愛)


問題は、
本来の価値をないがしろにして、
売れるからといって、
本来の価値をめためたにしてしまっている、
バカな商売人ではないか、
ということである。


萌え絵だから売れるアニメは、
なんの価値があるのか。
勿論、萌え絵を免罪符にして、
価値ある物語を作っている、
闘う人もいるはずで、残念ながら僕の所に届かない。
それはやはり、その商売人が、
萌え絵を売っていて、
萌え絵の後ろにあるはずの価値を売っていないからである。


つまり、
商売人が、
その商品の本当の価値を見極めて、
それに値段をつけていない所に、
問題の本質がある。


マーケティングが悪だと書いたのは、
マーケティング理論そのものが、
市場至上主義であり、
それに抵抗して価値をつける本質の議論を、
失わせたことにある。
マーケティングなどなければ、
この作品の本当の価値とは何かと、
議論できる。
しかし数字があると、
今のトレンドがこうだから、このトレンドに乗ろう、
(=このトレンド以外の冒険はしない)
という思考停止が生まれる。

価値を言葉にする努力を、奪うのである。

勿論、マーケティング理論を議論の果てに援用することは、
正しいマーケティング理論の使い方だ。

しかし統計理論の誤用(たとえば標準偏差とか、有意差の話とか)
を見ても分かる通り、
数学理論は絶対正しいとして、
バカの思考停止を招く傾向にある。

実は金融もそうじゃないか、
つまり、数学ができる人が、
できない人を思考停止させるための道具ではないか、
と僕は考えている。複利とかね。

ついでにいうと、
ビッグデータとディープラーニングによる、
コグニション技術を元ネタにした、
いわゆる現在言われている「人工知能」ビジネスもだ。


人は議論ができない時、
形式的推論に頼りたがる。
数字で保証された気になる。
バカほどだ。

その根拠となる数学は何か?
まで、
殆どの人はたどり着かない。
僕は理系なので、そこのところは疑わしい、から入る。

理系ほど、
「理論は現実を正確に反映しないし、
現実に適用できる範囲は意外と狭い」
を知っているからである。
たとえば「摩擦はないものとする」とかね。


さて。

ということで、
「売れるから、売る」は、
脳無しの商売人だ。

本当の商売人は、
「これは価値がある。換金すべきだ」と、
人を幸せにし、かつ自分も儲ける人をいう。

正確な数字は問わない。どんぶりの揺らぎこそ光と闇の面白さだ。

そういう意味でいうと、
僕は商売人の才能はない。
あくまで学者の才能なのだろう。
(脚本スペシャルで金は取れるだろうしな)

だから僕は賢い商売人を探している。
自分がなったほうが早いかもしれないが。



何故、邦画はこうもダメになってしまったのか?
たとえば黒澤明は今出られるのか?
否だろう。

新しい価値を理解して、
それを売ると判断できる、
真の商売人がいないからだ。


精々、
「売れるか売れないかは分からないが、
棚に置くことにしよう、リスク分散だ」か、
「そんなものにリスクは負えない」かの、
常人の商売人しかいない世の中になってしまったということだね。

それって結局、
太っ腹か崖っぷちかの違いでしかない。




さて。

私は新しい価値を書こうとしている。
今売れているものではないから、
現在のマーケティングではない。
しかし次の世の中に必要なものだと考えている。

それを売る仕組みを考える人を募集中だ。
キーワードは、「次の世の中」かもしれない。

バカな商売人の言う「売れる」は、
「かつて売れた」でしかないからね。



もっとも、この議論の前提を崩すことは簡単で、
「商売とは人を騙すことである」とか、
「芸術で金儲けをしてはいけない」というあたりから出発すると、
全部崩れる。

僕は、映画をはじめとする物語芸術は、
大衆に分かる新しい価値を示し、
騙さず、かつ売れることが、
一番だと考えている。
文化や思想は発展するべきだと考える。

それに正当な報酬があれば、僕はそれで良い。

それをどうにかしてかすめようとする所から、
崩壊は始まったんじゃないか。


つまり、
ある程度売れるが、価値のないものを作ることに特化してしまったのが、
邦画の現状ではないか。
posted by おおおかとしひこ at 12:53| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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