なんでメアリースーが良くないのかを考えよう。
単純に面白くない以外に、
僕は問題があると思う。
つまり、表現には社会性があると思うのである。
たとえば謝罪会見で、
「何が悪いんだよ、気持ちよかったからいいだろ」
と本音を言う人はいない。
発言は社会的なものであるからだ。
どんな言葉でも、
社会で発言されたことは、
社会性がある。
一方、相手のいない発言がある。
ツィッターなどだ。
ついつい本音を書いてしまい、
炎上発生器になる原理は、
本人は誰にも言わない独り言のつもりで書いたものが、
社会的発言と解釈されることによる。
そもそも呟きなんだから、
僕は独り言でいいと思うんだ。
じゃあチラ裏に書いとけ、
と言うことになり、
全方位に発信する意味はねえだろ、
ということになる。
表現となったら、それはどうなったって社会的である、
ということの例である。
ところで、
「物語を書く」という行為は、
独り言だろうか、社会的だろうか?
誰にも見せない、自分だけの愉しみとして、
芸術というのは最初にあるものだ。
いやあ、いいものが出来ちゃったねえ、
という自慢の会こそが、
同好の士の集いというものだ。
絵描きたちや音楽屋とかダンサーたちとかは、
自分たちの創作物を、
そうやって同好の士の集まりで披露したりする。
物語はそうだろうか?
独り言のツイッターのような、
自分のためだけの物語とはどういうことか?
それは大抵の場合、
「今のダメな自分を否定せずに受け入れられ、
最強の全能感を味わうことで、
現実逃避の道具、つまり慰みものとする」
というものではないか?
すなわちメアリースーである。
自分だけの物語なんだから、
いくらでもそうしたほうがいい。
仕事の厳しい医師や弁護士や政治家ほど、
赤ちゃんプレイが好きなのだそうだ。
自分は無能だが最強な赤ん坊になって、
ビッグマザーに抱かれたいのだ。
プライベートなプレイであれば問題ない。
外に一歩出たら、
有能な医師や弁護士や政治家であればよいだけだ。
だから、自分だけの物語を楽しむ時は、
別にどんだけメアリースーでもいいんじゃないかと思う。
あなたがそれを書き、再読することで、
癒され、明日への活力になるなら、
酒を飲んだりジムに通うことと、
なんら変わらないと思う。
問題は、その物語が、
他人へ開かれたものかどうか、
ということだ。
他人に開かれた瞬間、
それは社会性を帯びる。
他人の前で赤ちゃんプレイをする人はいない。
謝罪会見で「気持ちよかったから」と本音を言う人はいない。
メアリースーは、他人の前に出してはいけない。
何故ならそれは社会性の仮面を被っていない、
モロだからである。
物語を書くときに、
ついつい自分の愉しみとして書いてしまう。
その書き方は、
「他人に見せる物語」として、
間違っている、
ということである。
独り言のツイッターを、公開してはいけないのだ。
同人出身は、
この辺を間違いやすい可能性がある。
何故なら同好の士の集まりでの突出とは、
メアリースーの競い合いであるからだ。
「萌え」度合いの競い合いは、
所詮赤ちゃんプレイの内容違いだ。
同人でやる分には構わない。
それは、他人に開かれていない、
という閉鎖空間だからである。
同人出身がいきなり、
「他人に開かれたもの」を作ることは出来ない。
一からそれを勉強する必要がある。
小学校から社会性を学んできたことと、
同じことを「表現」で学ばなければならない。
それが、これまでのノリで、
やってしまうから問題なのだ。
他人に開かれたものと、
自分(と同好の士)の為のものは、
180度違うものである。
その混同こそが、
メアリースーを他人に晒してしまうことである。
メアリースー的主人公を書いてしまう人は、
丸裸で人前を歩いているのである。
ちんこを隠せ。
人前に出るには、
服を着て、仮に勃起しててもしてないような振りをし、
社会を論じ、人の道を論じなければならない。
もっとも、それは他人行儀のことで、
親密になるにはその自他の境界線を越えて、
「あんたもお好きねえ」と、
同輩になることが必要だ。
男よりも女の方が友達を作るのがうまいのは、
他人との境界線を引くよりも、
簡単にそれを超えるのが上手だからである。
表現とはなんだろう。
他人と仲良くなることだろうか?
人前に出ることだろうか?
どちらもうまいことこなせるべきだと、
僕は考えている。
適度に社会性を持ち(テーマ)、
適度に親密性を持つ(感情移入)べきだと。
その両方を何も考えていないメアリースーは、
無知のふるちんでしかないのだ。
2018年05月11日
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