ストーリーは、前に進むものです。
それが強力であればあるほど、
それは牽引力、面白さに繋がります。
そんなことはわかっているでしょう。
でもいざ書いてみると、
すぐに行き詰まってしまうことは、経験すると思います。
どうして前に進まないのか。
どうすれば停滞は避けられるのか。
そもそも前に進むって何をすればいいんだ?
前に進むものの起点として、
最も重要なものは、
目的、または動機です。
目的と動機は、使い分けることもあるし、
一緒くたに考えることもあります。
おおむね、具体性がない願望や欲望を動機、
「絵で示せる具体性」があるものを目的といいます。
「お腹がすいた」が動機で、
「人気ラーメン屋に並ぶ」が目的です。
動機を満たせるならば、目的は変更になることもあります。
行列が長ければ、
隣の閑古鳥の鳴いてる蕎麦屋に入っても良いのです。
この場合、
「お腹がすいた」動機を満たせればよし、
と考え、「不味そうな蕎麦だが大盛りを頼んで満足する」
を目的に変更することも可能でしょう。
この目的の変更を、ターニングポイントといいます。
動機はそのままでも、具体目標を変えることは可能でしょう。
有名になりたいという動機を、
ギターの練習をする、から、
通り魔として新聞に載る、
という目的に変えることもあり得ます。
この動機や目的が強ければ強いほど、
ストーリーの前進力は強くなります。
ハリウッドの脚本の教科書では、
「できればこうしたい」を、
「死んでもこうしたい、しなければならない」
に改めよ、とよく言われます。
お腹がすいたなあ、ではなく、
餓死寸前、給料日前で三日間水しか飲んでなかった、
などのようにすればよいのです。
えんさんの前記事のコメントで感じたのですが、
作者本人が行動的でエネルギッシュであるかどうかと、
作品の中の人物がそうかは、
関係ありません。
作者と主人公を混同してはいけない、
というのがメアリースーの原則でした。
あなたが怠惰で消極的な人間であろうが、
エネルギッシュなリア充だろうが、
それとは一切関係なく、
「強い動機で行動する」という人物が、
物語に求められる人物像なだけです。
(そうじゃないと停滞がやってくるので)
この分離が未熟だから、
「おれにはこんな人間はかけないよ」
と落ち込んでしまうのです。
私たちが書いているのはフィクションであり、
実録ではありません。
架空の人物を、作ってよいのです。
また、
とてもエネルギッシュでとても行動的な、
ハイカロリーのアメリカ人が理想でしょうか。
それはお腹いっぱいになりすぎます。
だから架空の人物は、
「リアルで行動しそうな」人物にするべきです。
つまりナンパをバンバンしてやりまくる男よりも、
どうしても声をかけたいぐらい好きな人がいる、
というほうがリアリティがある行動力になるわけです。
それでもちょっとうそ臭ければ、
「今日は卒業式である」というシチュエーションを、
脚本家が用意するわけです。
つまり、
最初から行動的な人物はいません。
人は、動機ときっかけを与えられると、
行動をはじめる、ということです。
誰に言われなくても、勝手に。
部屋でゴロゴロしてお腹が空いているだけでは、
人は飯を食いに行かないかもしれません。
その時に、
近くに新装開店したラーメン屋からいい匂いが漂ってくるとか、
ベッドの下に落とした500円玉を発見するとか、
2時でランチタイムが終わっちゃうとか、
そういうきっかけがあると、
家から出るのです。
行動を描くのが脚本家の仕事ではありません。
きっかけを創作するのが仕事です。
場さえ整えば、誰でもそうするだろう、
という、
上手いこと、リアリティあるように作るのが、
脚本家の仕事なのです。
「誰でもそうするだろう」が重要で、
だから感情移入が起こるのです。
腹減ったなあ、でも外行くの面倒だなあ、
雨も降ってるしこのまま寝ようかなあ、
というシチュエーションで、
急にアメリカ人のように、
「外出するぜヒャッハー!」という、
「行動的な人物」を描いてもしょうがないのです。
誰もがそうならこういう行動はするだろうな、
というシチュエーションを与えてあげればよいのです。
だから「わかるわ」となるのです。
腹が減ったぜ、しかしラーメン屋まで全力ダッシュだ!
は行動ではありますが、感情移入の対象ではありません。
(見世物としては面白い)
しかし、「わかるわ」という「条件の整い」があると、
人は「これは俺かもしれない」と思います。
あるいは、
「これは自分には経験のない世界だが、
もし彼のような状況に陥り、
彼のような条件の整いがあれば、
自分でもこうするだろう」と、
想像できた瞬間、
感情移入が起こります。
その瞬間、ヒャッハーみたいな見世物から、
「登場人物とのシンクロ」が始まるのです。
誰もが、
ヒャッハーな人であったり、
名前のない殺し屋であったり、
博士のクローンで一人で生きたわけではありません。
しかし、
「組織のあり方に疑問を持ち、抜けようと思う」
「初めてできた友達と言われて、協力を決意する」
というハチの行動には感情移入が伴います。
「ずっと一人で生きてきたけど、
遊んでくれて、『名前がないことを気にする必要がない』と言われた男がいることで、
数万人を救えるかも知れない血清の開発協力を依頼する」
という護の行動にも感情移入が伴います。
それは、
「自分にはこんな経験も素性もないが、
もし自分がこんな状況であれば、
きっとこうするだろう」が、
あるからです。
動機が強く、
状況が整えば、
人は勝手に行動します。
そしてそれが「もし自分だったら」と想像し、
「わかるわ」となれば、
感情が動きます。
そしてこの前進する力が強ければ強いほど、
ストーリーは前に進み、
魅力を放つというわけです。
ハチには強い動機があります。
人殺しの組織から抜け、名前を得て人間になること。
護にも強い動機があります。
血清を開発しないと、自分自身(なのか親なのか)が作ったウィルスが、
テロに使われてしまうこと。
(ハチの動機は前方に、護の動機は後方にあります。
前方の動機とは「こうすれば〇〇になる」で、
後方の動機とは「こうしないと〇〇になる」です。
わざと対比的にしてみました)
そしてその強い動機に、
シチュエーションが整うから、
強い行動、強い前進を、
(意図せず)してしまうのです。
さて、これは行動の起点の話でした。
次は「途中」についてです。
プロの技、内容含め、大変感動しました。
僕も、もっともっと書かなきゃ!
話はそれからだ。
えんさんにも、もちろん感謝です。
流映ちゃんによろしく。
さて、GW中は片っ端から、特に感情移入についての記事を読ませていただきました。
「理解と賛成」という考え方は、まさに目からウロコで、例えるなら、
とんでもない金脈を見つけた!
って感じです。
GWだけに。
ちなみに、僕が動機と目的を考えるときはいつも、
「うんこ行きたい」
と考えます。
これほど原始的で生理的で、
強い動機はないのではないでしょうか。
当然、トイレに向かうワケですが、
足がしびれて立てません。
何かのお役に立てれば幸いです。
ていうかバンバン書いて、日本の糞みたいな脚本状況を変えていかないと。
ちなみに、「小便が漏れそうなのだが、トイレが見つからない」
という原始的と社会的の狭間のコンフリクトから始まる映画が、
「バッファロー'66」です。
予告編が超いい。暗転を上手に使う、という技法をここから盗んだなあ。
小ラブストーリーとしてもなかなかの佳編かと。
カッコイイ。レンタル決定。内容次第で購入。
って、ミ、ミッキーローク!?
「レスラー」良き!
僕も大岡さんから、色々と盗ませていただいております。
でも、まだまだ盗み足りない。
毎晩、峰不二子を抱けるくらいの男に
なりたいと思っております。
そして、いつかは観客の心も。