2018年05月09日

【脚本添削SP2018】15 流れの自然さ

元原稿に比べ、リライト版は流れるように話が進んでいます。
緩急をつけ、ガクガクしたスピード感になるはずですが、
べつに止まったり急に走り出した印象はない。

どういうことでしょうか。
それは、「つなぎ」がしっかりしているからです。


つなぎはいわばクラッチです。

僕は運転免許がないので正確なたとえかわかりませんが、
クラッチは、スピードのギアをスムーズに繋ぐ役目があるわけです。

1速から3速に急に入れるとガクンてなるから、
それをクラッチワークでスムーズに加速減速するわけです。

つまり、走行感覚としてはいつのまにか速度が変わっているかのように、
体感させるのがクラッチの役目です。

それは、「シーンの出口」に注目すると良いのです。


最もわかりやすいのは、ラス前のつなぎかな。

前のシーンの出口は、
「ヤブが殺し屋だった」というどんでんでした。

次のシーンは、
「その出口を受けた入り口」から始まります。
ヤブの正体を語るところからです。

ということは、
この二つのシーンは、
時系列、空間的に、全く二つの場所でありながら、
「意味において繋がっている」ということになります。

この、
「二つのシーンを意味によって繋ぐ」ことは、
映画話法の特徴だと思います。


リアルで考えましょう。


ヤブだと分かった、

死体を片付ける(単独?組織の力を借りる?)
警察への通報はないものとしよう
あるいは現場検証と正当防衛の証明があったかも
引っ越して行方をくらませる必要があるかも
引っ越し完了
ようやく双葉と会う
そういえばさ、ヤブだったんだよ、
とハチが語り始め、

それを受けたセリフがシーンの頭


というように、間が随分省略されているわけです。

私たちはこの話法に、受け手として慣れすぎているため、
見ている時はあまりに自然に受け入れているため、
あえて省略に目を向けることはありません。

しかし書き手となった場合、
「ここは意図的に省略して、
次のシーンの頭と意味的に繋げることをしよう」
ということを意識しないと、
この技を使うことはできません。


シーンの尻と、次のシーンの頭が、
アクションとリアクションの関係になっていることに注意。

だからカットバックの編集のように、
意味がつながるわけです。


カットバックの編集は映画において本質的で、
異なる時空を意味的に繋げることが可能です。

僕がこれを学んだのは、
会社に入って一年目、先輩が映画のビデオを繋いで、
スカパーのプレゼンビデオを作っている時でした。

椿三十郎が喋る。
ダースベイダーがそれに喋り返す。(セリフは字幕)
椿三十郎が切る。
ダースベイダーがやられたリアクション。
今度はダースベイダーがライトセイバーで切る。
椿三十郎がやられたリアクション。
椿三十郎「やるな」
ダースベイダー「お前もな」

「映画三昧!スカパー!」

みたいな感じでした。

互いに異空間です、
一方はモノクロ一方はカラー、
一方は邦画で一方はハリウッド、
一方は時代劇で一方はSF、
一方は日本で一方はタトゥーイン、

しかしアクションとカットバックを使うと、
「意味で繋ぐ」ことが出来るのです。

これが編集=モンタージュなのだ、
と、学生あがりの僕には衝撃でした。


有名なCMに、ベースボールのSSKがあります。

土手で草野球の人がキャッチボールの球を投げると、
商店街のおっさんが画面外から来た球を捕り、画面外に投げ、
それをオフィスのおっさんが捕り、また画面外に投げ…
などを繰り返し、
色んな空間をボールでキャッチボールする、
というやつです。

似た構造のものはこれをパクっているので、
似たものをどこかで見たでしょう。

これもつまりはカットバックの応用です。
異なる時空を、意味で繋ぐわけです。

スカパーの場合の意味は「チャンバラ」で、
SSKの場合の意味は「キャッチボール」です。


「地に伏せろ!」のラス前の繋ぎの意味は、
「ヤブの正体」です。


このように、
編集とは、異なる時空を意味で滑らかに繋ぐことが出来るわけで、
つまり、
脚本のシーンの繋ぎとは、
このようになっているべきです。



その昔、
映画が演劇から派生した頃、
このようなシーンとシーンの繋ぎはありませんでした。

シーンは演劇でいう「場」で、
「場」と「場」は独立しているものでした。
演劇の場合「場」が変わったらセットチェンジが必要で、
どうしても間があくからです。
だから、「場」はその場内で話を一旦終わらせて、
それからちょっと空いて、次の場をはじめなれけばなりません。

初期の映画もこの文法を踏襲していて、
「場」が終わったら、
必ずフェードアウトして、次にフェードインする、
というルールで編集されています。
白黒映画に多い技法です。

昔の映画は全てセット撮影で、
ロケはありませんでした。
だから、ワンセットがまるまる、演劇の「場」、セットに相当していました。

ところがロケが始まり、
カメラを外に持ち出すヌーベルバーグの流れが始まると、
わざわざフェードアウトフェードインしなくても、
カットでシーンを繋げても大丈夫だ、
ということが発覚します。

場所はストーリーの単位ではない、
意味がストーリーのブロック単位である、
という、実は脚本構造の変革でした。


ハリウッドの脚本作法では、
未だに、
シーンの尻は、「FADE TO」と「CUT TO」の指定が可能で、
しかも明記の必要があります。

前者は伝統的な「場」の繋ぎ、
後者は新しい、意味で異なる時空を繋ぐ時の指定です。

実際のところ、フェードで繋ぐのは忘れ去れつつあるので、
おそらくデフォルトはカットのはずです。

しかしハリウッドの脚本家は、
少なくとも「場」の繋ぎを理解して、
「場」単位でものをかき、
その中で場所を変えることは可能であることを、
構造的に知っている、
ということになります。

ちなみに日本の脚本作法では、
両者の違いはなく、
ただずるずると○の柱で区切っていくだけです。

どうしてもシーンの尻でフェードアウトが使いたいときは、
「暗転。」がよく使われます。
これは日本の演劇台本と同じ記法です。

つまり、「場」が変わりますよ、セットチェンジですよ、
ということに他なりません。



話が逸れました。
いや、より本質的なことを話したのか。

つまりは、
シーンとシーンの繋ぎには、
大きく二種類あります。

異なる時空が繋がっているが、
意味やテンションは連続している、という「CUT TO」の感覚か、
異なる時空に繋がり、
意味は一旦終わりで、次の新しいブロックを始めるよ、
という「FADE TO」の感覚か、
ということです。


ストーリーを書いてる時、
表現としてフェードを使うかどうかよりも、
この間は断絶するのか?
を考えるべきだ、
ということです。

殴られて倒れた、目を覚ますと…
というときに、
その間はたいていは暗転を挟んで表現されますが、
意味としては連続しているので、
「CUT TO」の繋ぎです。

もし殴られて倒れて、記憶を失ったところから始めるなら、
「FADE TO」の繋ぎ、
ということになります。

前者ならば、
「あれ? 俺、酔っ払いに絡まれて…やべ、財布がねえ!
ていうかここどこ?」
と、前のシーンのなにかを引きずっているはずで、
後者ならば、
「ここ、どこだ? 見覚えがないぞ。
ていうか、俺は誰?」
と、全く前のシーンと関係ないところからスタートするはずです。


あなたのシーンはどうなっているでしょう。
意図的に使い分けているでしょうか。


そして、
ここからがようやく本題。


次のシーンで受けやすいように、
シーン尻で、なにかしらを起こすことです。


「地に伏せろ!」の例からひくと、
「初めてできた友達だから、協力してほしい」
というあとに、
そのハチのリアクションである、
犬に尻を噛ませるシーンの繋ぎがあります。

その前は、「犬に尻を噛ませて」と、
訳の分からない頼みをされて、
その心は、と謎のときほぐしをするシーンに繋いでいます。

つまり、
公園→部屋→公園と、
異なる時空間が、
意味の繋ぎによって一連になっているわけです。


こんなことは、
見てる時は当たり前なのですが、
いざ書くと流れるように書けなかったりします。

そこで、
現実的な対処法として、
「シーン尻に、次のシーンの前フリをする」
というパターンで対応していくといいと思います。

そうすると次のシーンの先頭は、
その受けから始められるからです。


北野武の天才性は、
これを無言で繋いだりすることです。
アウトレイジ以前の演出は、
そのようなシーンの繋ぎでボケツッコミをするものが、
とても多かったように思います。



また、僕は、
「シーンの尻にターニングポイントを持ってこい」
というコツを言ったりします。
つまり次のシーンがそのリアクションから始められるので、
停滞を防げ、
自然な繋ぎになり、
かつ強力な前進になるわけですな。


ちなみにこれは、
ドラマのCMに入る前のシーン尻、
連載漫画のその週の最終ページでも、
同様のことが言えると思います。

これらは、
「次にどうなるんだろう」と興味を持たせるための、
「ヒキ」だと説明されることが多いですが、
それはターニングポイントでもあるわけですから、
このあとに、
「それに対するリアクションが繋がること」の、前フリでもある、
ということです。

これらを知らないバカな脚本家が、
ヒキをかけずに、
ドラマや漫画を詰まらなくして、
チャンネルを変えられ、週刊誌は買われず、
業界の停滞を招いているわけです。


僕の経験でいうと、
風魔ドラマの脚本を書いている時、
「ここでCM」と、CMの入りを指定していました。
プロデューサーたちはびっくりしたそうです。
「CMの入りを指定する脚本家は初めてだ」と。
逆に僕は、
「どうやってヒキを作るのか、
脚本家は考えてないのか?」と聞きました。
普通は監督か編集マンが作るんですって。

日本のドラマがレベルが低いわけですな。

観客の焦点や興味のコントロールこそが、
脚本の設計です。
それを放棄しているのは仕事をしていないことと同じです。




さて、
流れとはなんぞや。
前に何かがあり、それを後に受けること、
と考えるとよいでしょう。

まさにシーンがキャッチボールしているわけですな。


流れているときはどう繋いでいるか、
逆に流れを分断しているときはどう繋いでるか、
それらに注目しながら、
映画やドラマを見るのは、とても勉強になります。


それが分かれば、
繋ぎたい/分断したいを、
自分の作品でコントロールできるはずです。
posted by おおおかとしひこ at 12:34| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
毎度のコメントすみません。
せっかくの添削SPなので、リアクションしない方がおかしいかと(笑)

実は今日、僕もボンヤリと、
「何だか運転と似てるなあ」と思っていたワケで(笑)
イメージとしては「+」で加速、「−」で減速と考えた場合、
「+」でシーンが終われば、次のシーンで「−」になるようブレーキかけて、
「++」で終われば、「−−」だと急ブレーキすぎるから、
間に何か挟むのかと考えていたところ、

なるほど、シフトチェンジですか。
合点がいきました。
ありがとうございました。


さて、ヒキの問題。

僕はジャンプっ子なので、
ヒキなんてものは当たり前で、
シナリオを書く度に強く強く意識するのですが。

少年時代。
最後のページに得体の知れないヤツやら、
天変地異やら、
「一体、どうなんの!?」
なんて思いながら、下の枠外に目をやると、

「次回、巻頭カラー!」

おいおい!
この展開で、カラーページ書く余力
残ってんのかよ!

などと、いらぬ心配をしたものです。
Posted by しん at 2018年05月09日 17:42
しんさんコメントありがとうございます。

今のジャンプは読んでないのであれですが、
黄金期のヒキは、夢中にさせる何かがありました。

当たり前だけど、巻頭カラーなんて一か月以上前から準備するだろうし、
カラー回に面白い話が来るように前々から調整していたのでしょうなあ。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年05月09日 21:43
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