僕が映画が好きなのは、全部スッキリ片がつくからかもしれない。
全部を一回ぶちまけて皿に出し、
調理しきって、喰いつくし、
平らげ、ちょっとしたデザートも喰らい、
そうして何も残らず、
記憶だけになってしまうからかもしれない。
ドラマが、あんまり僕は好きじゃない。
昔のドラマは好きだった。
視聴率に応じて、話を変え始めるようになって、
興味がなくなったのかもしれない。
(好きだったドラマを紐解くと、たいがいは撮影前に全て台本が出来ている、
映画と同じ方式であったことが多い。
オンエアしながら台本を変えていくなんて、ただのアドリブショーではないか)
ストーリーはパズルの一種であるともいえる。
全てのパーツが、
過不足なくかみ合って、
最後にスッキリと解消して、
何もかも食べ残しなしになるから、
僕はストーリーが好きなのかもしれない。
伏線を残したままにして、
次回作にヒキをつくるだって?
あほか。映画がなにかわかっているのか。
二度と会わないかもしれない人たちに、
フルコース食べ残しなし、
の最高の満足を味合わせるために、
映画があると僕は思う。
伏線は全部使う。
壁にかけられたままの銃はない。
使うべきものとして用意されたものは、
全てが機能し、全てが意味がある。
そういう完璧なものが、
僕は好きなのだと思う。
先日回収し忘れて、
放りっぱなしになっていたものを、
全部回収し終えた。
もうお腹いっぱい、
これ以上一口も入らない、
最高の満足を得た、
ような気がする。
(まだリライト前なので、予断は許さないが)
全部を説明して終わらせるのは愚の骨頂だ。
いわずもがな、で全てが想像できるようになっているのがベストだ。
最近書いたやつでは、
そういうラストを用意できたので、
たいへん満足している。
伏線は回収したか?
しかも見事に回収したか?
最後にあれはどうなったんだっけ、は残っていないか?
全部をきれいさっぱりに、
白い皿だけになるようにしよう。
全ては記憶の中に、
完璧な形として格納される。
それがストーリーというものの、
最大の魅力であるような気がしている。
2018年05月19日
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