2018年05月18日

「よくやった」と言われたい男、「わかる」と言われたい女

相変わらず乱暴な男女論をする。
例外はたくさんいるが、層として多い、
という話をする。
私はそれに当てはまらないし周囲でも見たことがない、
という人も沢山いるだろうが、
層としては統計的にマスブロックがある、という話をする。
それは集団的無意識に近く、ビッグデータとか言われるやつだろう。


誰もが褒められたく、承認欲求がある。

これはデジタル時代になって暴かれた、
人間の明確な性質のひとつである。

で、これには男女で有意差があると、
僕は考えている。
それが、映画の作り方に影響を与えている、
というのが僕の考えだ。

ものすごいざっくりいうと、
男向けは冒険、女向けは恋愛。
それが男女の映画の好みである。

それは勿論例外もたくさんいるが、
層としてそうだ、ということは抑えておくべきだ。
だって映画はマスコミニュケーションなんだから。

ボリュームゾーンに訴えることは勝敗を決定的にし、
かつ例外層をどれだけ拾えるかが、
その作品の伸びしろを決定する。
(最近はボリュームゾーンを分割ばかりして、
大勝利を狙わない小物が増えたが)

ニッチな例外的作品が増えたのは、
例外の層が案外多いということを意味している。

しかしその費用対効果を考えると、
ニッチな例外作品は、予算が与えられない。


ということで、
統計に出るほどの男女差については考えるべきで、
結果よりも、なぜそうなるかについて考えるべきだ。
なぜそうなっているか分かれば、
対処のしようはあるからである。


で。


男は「よくやった」と言われたくて、
女は「わかる」と言われたい、
深層心理がある、
というのが僕の仮説である。


男は我を殺してでも、
目的遂行に快感を得る。
何故山に登るのか?
何故チャレンジするのか?
何故変なことをして自慢するのか?
それは、
「どれだけ我を殺して、時間と手間をかけて遂行しえたか」
を、認めて欲しいからである。

動機は自己満足だったとしても、
それをよくやったと認められると、
「わかりますか」とニヤニヤするものである。

男子はなぜハナクソボールを作ろうとするのか?
それは冒険心の現れである。
無茶をして「よくやった」と、
その我を殺してまで遂行した結果を認証して欲しいのである。
すげえ、俺には出来ねえ、
というリアクションこそが、
もっともその男子を喜ばせることになるだろう。


女にはそれはない。
(ないというのが乱暴なのは承知の上)
女が欲しいのは現状改善ではく共感だ。
今の気持ちが共有されれば、
現状は改善してもしなくても良い。

現状改善に共感がないのと、
共感があるが現状改善がないのとでは、
女は後者を選びがちだ。

男の買い物は現状改善が目的なので、
我を殺して遂行するのみだ。
だからスペックを比較し、結論まで一直線である。

女の買い物は共感が目的なので、
今の私の気持ちにぴったりなのは何かを探す。
いや、その気持ちはひとつではなく揺れているので、
私を揺らす何かを見つけては、
別の揺らす何かを探す。
その揺らされるたゆたいこそが女の買い物で、
だから女の買い物は時間がかかり、
バカかと思う男は常にタバコ場で待たされる。

女の会話は共感できる情報交換で、
男の会話はスペック自慢だ。
女の会話は過程の話ばかりで、
男の会話は結論だけだ。

それは、
「よくやったかどうか」と、
「わかるかどうか」の違いなのだ。


男は、よくやった人物に憧れ、そうなろうとする。
女は、わかる人物に憧れ、そうなろうとする。


まだ極論している。
そういう深層心理が、層としてあるという仮説だ。


だから男は、「よくやるわ」とため息をつかれてでも、
ヘンテコな事をしたがる。
(SNSで炎上した、アイスクリーム機に入ったコンビニバイトは、
その典型だ)

だから女は、「わかる人いる?」とため息をつかれてでも、
ヘンテコな共感を求める。
(女の描く漫画は、仲間探しだ。「わかる人いて良かったです」
とよくいう)


こういう人たちが沢山の層として、観客を形成している。

男は、
無茶をしてでも、我を殺してでも、
何かを達成する危険と冒険が好きだ。

女は、
共感できる世界に共感できないものが入ってきて、
最後には共感できるものだらけになる人間関係が好きだ。

実はこのふたつは、
重なり合うことが出来る、
というのが僕の持論である。


だから、男向け女向けを、別に作るべきだ、
というクソマーケティングを意味しない。
それはパイを狭め、縮小再生産しか生まない。

層があり、それらが有意差があるとしても、
それら双方を満足させる物語を作ることは、
可能だろうと僕は考えている。


つまりは、冒険して恋愛すればいいわけではない。
それはただの短絡で、
女は恋愛すきだから恋愛シーンいれたろ、
なバカな方法論だ。

戦争もので、男しか出ていなくても、
共感が崩れ最後には共感だらけになることがあれば、
女は満足する。

恋愛もので、爆発とかカーチェイスとかなくても、
それが大冒険であることがわかれば、
男は満足する。


映画というマスはそうやって作られるべきで、
かつ、そうやって宣伝されるべきだと思う。

ドカーンボーンだから男さん見てください、
キラキラポワーンだから女さん見てください、
では何も進化しないどころか、
「わざわざ1800円払って映画館までいく」
という映画は、
ほっといても次々にリンクされる人気野郎だらけのYouTubeに、
気軽さで負けてしまうだろう。


僕は最近の映画ポスターに感動したことが一度もない。

ストーリーも想像できないし、
テーマも想像できないし、
どんな深層心理を刺激されるかも想像できない。

そのかわり、ジャンルとキャストとマーケティングターゲットは、
情報として整理されている。

購買行動とはなにか。
何を期待して金を払い、
何に満足して再び金を払いに来るのか、
そのループ維持とループの拡大に、
映画界は本気で何も考えていない。

それは、男女の深層心理ってなんだろうね、
まで考えてないからだと、
僕は批判することにしよう。



勿論、作家レベルでそれを考えるのは当たり前で、
だからこそ「次の作品」を作ることが出来る。
しかしそれを売ることが出来ないのが、
今の映画界の現状で、
それはマーケティング理論を信じて、
自分たちの深い考えをサボっているからだと、
僕は思う。


「よくやった」と言われたい男。女。
「よくやった」と言われない男。女。
「やるな」と言われる男。女。
「やれ」と言われる男。女。
「よくやった」と嘘をつかれた男。女。
「ほんとによくやった」と言われた男。女。

「わかる」と言われたい女。男。
「わかる」と言われない女。男。
「わからない」と言われた女。男。
「わかって」と言われる女。男。
「わかる」と嘘をつかれた女。男。
「ほんとにわかる」と言われた女。男。

これらは全て、人を動かす動機になる。


あなたの書く物語が偏っているなら、
満遍なくこれらのことを考えるべきで、
あなたが映画の宣伝部なら、
これらの視点で物事を再構築してみるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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