相変わらず乱暴な男女論をする。
例外はたくさんいるが、層として多い、
という話をする。
私はそれに当てはまらないし周囲でも見たことがない、
という人も沢山いるだろうが、
層としては統計的にマスブロックがある、という話をする。
それは集団的無意識に近く、ビッグデータとか言われるやつだろう。
誰もが褒められたく、承認欲求がある。
これはデジタル時代になって暴かれた、
人間の明確な性質のひとつである。
で、これには男女で有意差があると、
僕は考えている。
それが、映画の作り方に影響を与えている、
というのが僕の考えだ。
ものすごいざっくりいうと、
男向けは冒険、女向けは恋愛。
それが男女の映画の好みである。
それは勿論例外もたくさんいるが、
層としてそうだ、ということは抑えておくべきだ。
だって映画はマスコミニュケーションなんだから。
ボリュームゾーンに訴えることは勝敗を決定的にし、
かつ例外層をどれだけ拾えるかが、
その作品の伸びしろを決定する。
(最近はボリュームゾーンを分割ばかりして、
大勝利を狙わない小物が増えたが)
ニッチな例外的作品が増えたのは、
例外の層が案外多いということを意味している。
しかしその費用対効果を考えると、
ニッチな例外作品は、予算が与えられない。
ということで、
統計に出るほどの男女差については考えるべきで、
結果よりも、なぜそうなるかについて考えるべきだ。
なぜそうなっているか分かれば、
対処のしようはあるからである。
で。
男は「よくやった」と言われたくて、
女は「わかる」と言われたい、
深層心理がある、
というのが僕の仮説である。
男は我を殺してでも、
目的遂行に快感を得る。
何故山に登るのか?
何故チャレンジするのか?
何故変なことをして自慢するのか?
それは、
「どれだけ我を殺して、時間と手間をかけて遂行しえたか」
を、認めて欲しいからである。
動機は自己満足だったとしても、
それをよくやったと認められると、
「わかりますか」とニヤニヤするものである。
男子はなぜハナクソボールを作ろうとするのか?
それは冒険心の現れである。
無茶をして「よくやった」と、
その我を殺してまで遂行した結果を認証して欲しいのである。
すげえ、俺には出来ねえ、
というリアクションこそが、
もっともその男子を喜ばせることになるだろう。
女にはそれはない。
(ないというのが乱暴なのは承知の上)
女が欲しいのは現状改善ではく共感だ。
今の気持ちが共有されれば、
現状は改善してもしなくても良い。
現状改善に共感がないのと、
共感があるが現状改善がないのとでは、
女は後者を選びがちだ。
男の買い物は現状改善が目的なので、
我を殺して遂行するのみだ。
だからスペックを比較し、結論まで一直線である。
女の買い物は共感が目的なので、
今の私の気持ちにぴったりなのは何かを探す。
いや、その気持ちはひとつではなく揺れているので、
私を揺らす何かを見つけては、
別の揺らす何かを探す。
その揺らされるたゆたいこそが女の買い物で、
だから女の買い物は時間がかかり、
バカかと思う男は常にタバコ場で待たされる。
女の会話は共感できる情報交換で、
男の会話はスペック自慢だ。
女の会話は過程の話ばかりで、
男の会話は結論だけだ。
それは、
「よくやったかどうか」と、
「わかるかどうか」の違いなのだ。
男は、よくやった人物に憧れ、そうなろうとする。
女は、わかる人物に憧れ、そうなろうとする。
まだ極論している。
そういう深層心理が、層としてあるという仮説だ。
だから男は、「よくやるわ」とため息をつかれてでも、
ヘンテコな事をしたがる。
(SNSで炎上した、アイスクリーム機に入ったコンビニバイトは、
その典型だ)
だから女は、「わかる人いる?」とため息をつかれてでも、
ヘンテコな共感を求める。
(女の描く漫画は、仲間探しだ。「わかる人いて良かったです」
とよくいう)
こういう人たちが沢山の層として、観客を形成している。
男は、
無茶をしてでも、我を殺してでも、
何かを達成する危険と冒険が好きだ。
女は、
共感できる世界に共感できないものが入ってきて、
最後には共感できるものだらけになる人間関係が好きだ。
実はこのふたつは、
重なり合うことが出来る、
というのが僕の持論である。
だから、男向け女向けを、別に作るべきだ、
というクソマーケティングを意味しない。
それはパイを狭め、縮小再生産しか生まない。
層があり、それらが有意差があるとしても、
それら双方を満足させる物語を作ることは、
可能だろうと僕は考えている。
つまりは、冒険して恋愛すればいいわけではない。
それはただの短絡で、
女は恋愛すきだから恋愛シーンいれたろ、
なバカな方法論だ。
戦争もので、男しか出ていなくても、
共感が崩れ最後には共感だらけになることがあれば、
女は満足する。
恋愛もので、爆発とかカーチェイスとかなくても、
それが大冒険であることがわかれば、
男は満足する。
映画というマスはそうやって作られるべきで、
かつ、そうやって宣伝されるべきだと思う。
ドカーンボーンだから男さん見てください、
キラキラポワーンだから女さん見てください、
では何も進化しないどころか、
「わざわざ1800円払って映画館までいく」
という映画は、
ほっといても次々にリンクされる人気野郎だらけのYouTubeに、
気軽さで負けてしまうだろう。
僕は最近の映画ポスターに感動したことが一度もない。
ストーリーも想像できないし、
テーマも想像できないし、
どんな深層心理を刺激されるかも想像できない。
そのかわり、ジャンルとキャストとマーケティングターゲットは、
情報として整理されている。
購買行動とはなにか。
何を期待して金を払い、
何に満足して再び金を払いに来るのか、
そのループ維持とループの拡大に、
映画界は本気で何も考えていない。
それは、男女の深層心理ってなんだろうね、
まで考えてないからだと、
僕は批判することにしよう。
勿論、作家レベルでそれを考えるのは当たり前で、
だからこそ「次の作品」を作ることが出来る。
しかしそれを売ることが出来ないのが、
今の映画界の現状で、
それはマーケティング理論を信じて、
自分たちの深い考えをサボっているからだと、
僕は思う。
「よくやった」と言われたい男。女。
「よくやった」と言われない男。女。
「やるな」と言われる男。女。
「やれ」と言われる男。女。
「よくやった」と嘘をつかれた男。女。
「ほんとによくやった」と言われた男。女。
「わかる」と言われたい女。男。
「わかる」と言われない女。男。
「わからない」と言われた女。男。
「わかって」と言われる女。男。
「わかる」と嘘をつかれた女。男。
「ほんとにわかる」と言われた女。男。
これらは全て、人を動かす動機になる。
あなたの書く物語が偏っているなら、
満遍なくこれらのことを考えるべきで、
あなたが映画の宣伝部なら、
これらの視点で物事を再構築してみるべきだ。
2018年05月18日
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