2018年05月18日

【日記】ベーゼンドルファーの音色を聴いてきた

今書いている話では、ベーゼンドルファーのピアノが重要な役割を果たす。

世界三大ピアノといえば、スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインだが
(調べてはじめてしったこと)、
僕らがよく聞くヤマハやカワイや、精々スタインウェイに比べて、
ベーゼンドルファーの生の音色はどう違うのか、ずっと興味を持っていた。

ちょいと調べると、ベーゼンドルファー東京本社が中野坂上にあり、
月一で東京音大の学生さんが生で弾いてくれるという。
30分くらいの気軽なコンパクトさで、しかも無料。ということで行ってきた。

どうして人は、ピアノの音を生で聞くと泣いてしまうのだろう。

ベーゼンドルファーは、遥か過去とつながっている音がした。


一応下調べで、
YouTubeとかで、
スタインウェイとベーゼンドルファーの音色の聴き比べ動画を散々見てはいた。
でも所詮デジタル化された、代替経験でしかない。
イヤホンで聞くmp4でしかないからね。

生の音を聴かずに、ピアノに命をかけた男の話がほんとうに書けるはずがない。

何を思ってピアノの前に座り、
何を思ってその一台家一軒くらいのピアノを弾くのか。

それは、まずそれがどういう音を奏でるか、聞いてみないとはじまらない。


ベーゼンドルファーさんのご厚意に感謝。
演奏者の宮崎真滉さんが、曲を弾く前に間をたっぷりとって、
世界に入り込む瞬間を生で見れたのがとてもよかった。

その素晴らしさはいつか作品に書きます。



印象に残ったのは、
ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」という曲。

ぼくはクラシック音楽にまったく詳しくない。
今回書くのに必要なところだけ調べたくらいで、
のだめカンタービレもラブストーリーとしてしか見ていない程度だ。
アンダンテもスピアナートもポロネーズもはじめて聞く言葉だ。
ほぼ「;*`”#$==〜(&%」と僕には見える。

しかしこの曲は、
ショパンの晩年の曲のようだ、と思って、ずっと聴き入ってしまった。


自分の本意と違う名声。
お前らが期待するショパンの超絶テクニックはこういうものだろ?
いろいろ入れ込んで見せてやるよ。よろこべよ。

でもほんとうに僕が大事にしてるのは、過去にあったちいさな恋の思い出だ。

俺は名声とかどうでもいい。どうせ世間は別の俺を求めているにすぎない。
聴衆を適当に沸かせながら、
俺は過去に過ぎ去った君のことを弾く。

まったく、ほんとうに、どうでもいい世間よ、
俺はちょっと小難しい実験的なことを表現してみるから、解釈でもして楽しめよ。
意味なんてねえけどな。それでありがたがりな。

さあラストだ。俺は全部の超絶テクを組み合わせて、
考えうる限りのフルスロットルを出すぞ。
さあスタンディングオベーションだ。

遠き人よ、君に届けるものはこの空しい大喝采。



そういう物語を、僕はそこから読み取った。
俺の葬式にこの曲を流してくれ、というような思いすら感じた。

無論、なんの予備知識もない。
ショパンは天才で偉い人で、「別れの曲」しか知らない。
なんだか甘いトーンが多かったような、適当な記憶。
たぶんモーツァルトと区別がつかない。


気になって調べてみた。



晩年ではなく、早めの歳の作品であること。
しかしこのコンサートが最後の人前に出た曲であること。
つまり実質引退作品であったこと。
ということはおそらく晩年の心境でつくられたものであること。

ついでに、
「パリ時代のショパンの弟子デスト男爵夫人に献呈されたもの」であるらしい。

彼女に恋して敗れたかどうかは、本人しか知らないかもしれない。


俺の読解力がすぐれているのか、
ショパンの表現力がすぐれているのか、
演奏者の宮崎真滉さんの解釈や表現力が優れていたのか、
ベーゼンドルファーのせつない音色がそうさせたのか、
僕にはわからない。

しかし1836年のパリの男の波動は、2018年の東京の男に共鳴したことは、
たしかなようだ。


芸術が時を超えるということは、こういうことかもしれない。
たぶんデジタルじゃこうはいかない。
人の手だけで伝えられる波動こそが、芸術ではないかと思う。

複製に意味なんてないのかもね。
クラシックを愛する人は、このフルスペックの贅沢を知ってたんだなあ。
posted by おおおかとしひこ at 15:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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