今書いている話では、ベーゼンドルファーのピアノが重要な役割を果たす。
世界三大ピアノといえば、スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインだが
(調べてはじめてしったこと)、
僕らがよく聞くヤマハやカワイや、精々スタインウェイに比べて、
ベーゼンドルファーの生の音色はどう違うのか、ずっと興味を持っていた。
ちょいと調べると、ベーゼンドルファー東京本社が中野坂上にあり、
月一で東京音大の学生さんが生で弾いてくれるという。
30分くらいの気軽なコンパクトさで、しかも無料。ということで行ってきた。
どうして人は、ピアノの音を生で聞くと泣いてしまうのだろう。
ベーゼンドルファーは、遥か過去とつながっている音がした。
一応下調べで、
YouTubeとかで、
スタインウェイとベーゼンドルファーの音色の聴き比べ動画を散々見てはいた。
でも所詮デジタル化された、代替経験でしかない。
イヤホンで聞くmp4でしかないからね。
生の音を聴かずに、ピアノに命をかけた男の話がほんとうに書けるはずがない。
何を思ってピアノの前に座り、
何を思ってその一台家一軒くらいのピアノを弾くのか。
それは、まずそれがどういう音を奏でるか、聞いてみないとはじまらない。
ベーゼンドルファーさんのご厚意に感謝。
演奏者の宮崎真滉さんが、曲を弾く前に間をたっぷりとって、
世界に入り込む瞬間を生で見れたのがとてもよかった。
その素晴らしさはいつか作品に書きます。
印象に残ったのは、
ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」という曲。
ぼくはクラシック音楽にまったく詳しくない。
今回書くのに必要なところだけ調べたくらいで、
のだめカンタービレもラブストーリーとしてしか見ていない程度だ。
アンダンテもスピアナートもポロネーズもはじめて聞く言葉だ。
ほぼ「;*`”#$==〜(&%」と僕には見える。
しかしこの曲は、
ショパンの晩年の曲のようだ、と思って、ずっと聴き入ってしまった。
自分の本意と違う名声。
お前らが期待するショパンの超絶テクニックはこういうものだろ?
いろいろ入れ込んで見せてやるよ。よろこべよ。
でもほんとうに僕が大事にしてるのは、過去にあったちいさな恋の思い出だ。
俺は名声とかどうでもいい。どうせ世間は別の俺を求めているにすぎない。
聴衆を適当に沸かせながら、
俺は過去に過ぎ去った君のことを弾く。
まったく、ほんとうに、どうでもいい世間よ、
俺はちょっと小難しい実験的なことを表現してみるから、解釈でもして楽しめよ。
意味なんてねえけどな。それでありがたがりな。
さあラストだ。俺は全部の超絶テクを組み合わせて、
考えうる限りのフルスロットルを出すぞ。
さあスタンディングオベーションだ。
遠き人よ、君に届けるものはこの空しい大喝采。
そういう物語を、僕はそこから読み取った。
俺の葬式にこの曲を流してくれ、というような思いすら感じた。
無論、なんの予備知識もない。
ショパンは天才で偉い人で、「別れの曲」しか知らない。
なんだか甘いトーンが多かったような、適当な記憶。
たぶんモーツァルトと区別がつかない。
気になって調べてみた。
晩年ではなく、早めの歳の作品であること。
しかしこのコンサートが最後の人前に出た曲であること。
つまり実質引退作品であったこと。
ということはおそらく晩年の心境でつくられたものであること。
ついでに、
「パリ時代のショパンの弟子デスト男爵夫人に献呈されたもの」であるらしい。
彼女に恋して敗れたかどうかは、本人しか知らないかもしれない。
俺の読解力がすぐれているのか、
ショパンの表現力がすぐれているのか、
演奏者の宮崎真滉さんの解釈や表現力が優れていたのか、
ベーゼンドルファーのせつない音色がそうさせたのか、
僕にはわからない。
しかし1836年のパリの男の波動は、2018年の東京の男に共鳴したことは、
たしかなようだ。
芸術が時を超えるということは、こういうことかもしれない。
たぶんデジタルじゃこうはいかない。
人の手だけで伝えられる波動こそが、芸術ではないかと思う。
複製に意味なんてないのかもね。
クラシックを愛する人は、このフルスペックの贅沢を知ってたんだなあ。
2018年05月18日
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