2018年05月22日

メアリースーとアイドルの曲

突然店であややの「ねぇ?」がかかったので、
そういえばアイドルの曲が、
いつの頃からかメアリースーに侵されているなあ、
ということに思い至った。


天才つんくの詩に、
「こういうことも曲になるのか」
と当時は驚いた印象がある。

サビアタマからの、
「迷うわ セクシーなの?キュートなの?
どっちがタイプよ?
少しでも気を引きたい純情な乙女心」
だ。

アイドルの曲は、いつの頃からか、
「すごい可愛い子が、『あなた』のことを好き」
というシチュエーションを歌うことになってしまった。

秋元康×おニャン子の頃からその兆候があり、
つんく×モー娘。その他で完成を見て、
秋元康×AKBその他で爛熟していると思う。
大きな流れとしては。

それ以前の昭和歌謡には、
「あなたが好きゆえに○○」というのは、
それほどなかったような気がする。

歌謡曲は物語だった。
つまり、三人称形であった。

いつの頃からか、
アイドルは、好きな人を、
「あの人」とか「彼」とか「忘れられない人」とは呼ばず、
二人称、つまり、
「あなた」「キミ」と呼ぶようになった。

(欅坂はそれから離れた、カウンターカルチャーで、
どちらかというと一人称を歌うっぽい)


この変化は重要だ。

三人称形の場合、
第三者に恋するには、なにかしらの理由や動機が必要になる。
歌謡曲が物語足り得たのは、
それまでのストーリーを説明し、
全く関係ない第三者に、
感情移入させるつくりになっていたからだ。

感情移入とはつまり、
自分とは全く異なる事情の人に、
「重ね合わせる」ことによって成立する。

たとえ自分と事情やシチュエーションが違ったとしても、
「その気持ちはわかる」と、重ね合わせが起こるのが、
感情移入だ。


ところが、
二人称に対して好きというのは、
もはや、「理由がいらない」のだ。

好き前提で色々あって、
嫌いになることはありえない。

三人称形だと、この先どうなるかわからないから、
なにかしらの決断をしなければならない。
それがストーリーを生んだ。
(何かを言ったら終わりになってしまうから、
もう少しだけこのままでいさせて、
というパターンもあった)
つまり、三人称形は、時が流れることを前提としている。

ところが、
二人称では、時は流れない。
あなたのことが好きで、嫌いになることはないから、
時間軸のない設定だけを歌うことになる。
つまり、線でなく点だ。

そして重要なことだが、
好きであることに理由がない。
既定の設定だからである。


これが、簡単にメアリースーを生む。
つまり、
人々が、
「努力してリスクを負い、傷つきながらも前へ進む」
ことを放棄させ、
「何もしなくてもいいのよ。あなたが好きなの」
という思考停止を生む。

勿論、
前者よりも後者のほうが気持ちいい。
そのキャバクラ的カラクリに気づかないならば。


アイドル産業は、
昭和歌謡から微妙にマーケティングを変えてきた。
「なるべく多くの人々に受け入れられる」を辞めて、
「アイドルに夢中になる馬鹿」をターゲットにだ。
ざっくり言うとキモオタである。

いつの頃からか、
アイドルに夢中になるのは、
思春期に通る共通体験ではなく、
特定の層だけが猛烈に夢中になるものになってしまった。
顧客のセグメント化だ。

おニャン子あたりから、
僕はアイドルに夢中になるのが、
気持ち悪いと思うようになってしまった。
「同じ人種」にあふれていたからだ。

それはたぶん、
「自分のことは棚に置いといて、
理由なく愛してくれる」を好きなひとたち、
特有の空気が、嫌だったのだと思う。

それはつまりメアリースーである。


いつの頃からか、
アイドルは、メアリースーをターゲットにしたのである。

彼らは気づかない。
そしてアイドル以外に理由なく愛してくれる人はいない。
しかもかわいい。

市場は固定され、金を注ぎ続けることになる。

これは男のキモオタだけの話ではない。
女のキモオタがJなどに夢中になっているのも、
同じ構造だ。
(どちらがどちらを真似したのかはわからない)

「僕は君だけを抱きしめるために生まれた」
なんてのはJの何かだっけ。古いな。
「悔しいけれどお前に夢中」も同様だね。

二人称を言うとき、カメラ目線になる。
三人称の好きな人を歌うときは、目線を外して遠くを見る。
そういうことさ。



メアリースーは太い客だ。
これを聴き続けている間、成長しないからね。
これがない世界では生きていけないから、
またこれを金を出して求める。
ツアーに全通するファンだっている世界だ。
もはや麻薬だ。

(現代の)アイドルは麻薬だ。
メアリースーという、
理由なく愛される体験の麻薬だ。
キャバクラもそうだね。

そしてそれに慣れてしまうと、
滅多なことでは愛されない、現実世界から、
どんどん逃げてしまうんだろうね。

よく知らないが、ラノベにも同じ匂いを感じる。




さて。

楽曲そのものに金を出すのか?
メアリースー体験に金を出すのか?

後者の人の方が多いことで、
アイドルの曲は、後者に舵を切ったのだ。


メアリースーは金になる。


我々は、そうと知ってそういうものを作るのか?
そうと知って、そうではないものを作るのか?

何が金を生み、何が本当の価値だろうか?

自分で決めるべきである。
posted by おおおかとしひこ at 10:44| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
♪どこかで誰かがきっと待っていてくれる…

木枯し紋次郎の時代からメアリースーはあった!
(詞は脚本史上のレジェンド和田夏十の手になると言われています)
Posted by スーザン・ソンタク at 2018年05月29日 01:56
スーザン・ソンタクさんコメントありがとうございます。

木枯らし紋次郎のころならば、
「正しいことをやっていれば、
お天道様は見ていてくれる」とか、
認められるには「理由」があったように思います。

「ナンバーワンにならなくてもいい、
もともと特別なオンリーワン」
あたりからかなあ、
努力や人知れぬなにかを持たなくても良くなったのは。

さらに最近は「盛ってでも承認欲求を満たす」
「マウントしたい」ですかね。
流石にそこまで歌詞にしないだろうけど。


これらの一連にあるものは、
近代的自我が生まれたことによる「疎外」です。
疎外感を埋めるのに、
スナックのママから流行歌からSNSまで、
沢山のものがあるというわけですな。

自分自身の疎外感を癒すためだけの物語創作、
ということはあるかも知れません。(箱庭療法、演劇療法)
しかしそれはよほど上手でない限り、
バレバレなんだよなあ。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年05月29日 10:48
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