色々と配列いじりをやってきて思うのは、
結局、
ブラインドタッチがどれだけ速いかというのは、
「どれだけ短絡が出来ているか」ということだと思う。
運指というのは、
一個一個文字を探して打つ、
という単純なことではない。
運指が流れるようにスムーズにいく時が配列の習得だ。
それは二文字単位から、単語単位から、フレーズ単位になり、
慣れていることば単位の一気の運指にまで拡張される。
そうすると、
短縮入力を打つのとたいして変わらない感覚になってくる。
配列をどうこう考えるまでは、
「短縮入力」というのは、ある程度有効ではないかと考えていた。
ここでいう短縮入力というのは、
たとえば@Aを押す(または単語登録)
と「ありがとうございます」とマクロ入力されるようなものを考えている。
「よく打つフレーズだから、打鍵数を減らす」
というのは、最初は合理的だと考えた。
が。
ブラインドタッチに慣れてくると、
ほんとによく打つフレーズなら、
一個キーを押すのも、
そのフレーズを一気に入力するのも
「たいして手間が変わらない」ということに気付くようになる。
短縮入力に使われる、
短縮入力のためのキー(例では@)
というのが厄介で、
そのキーが「押しやすくない」ことが多く、
「押しにくいキーを押すくらいなら、
押しやすいキーで慣れた運指を打ったほうが速い」
という境地に来ることが分かった。
薙刀式v7(まだ最終調整中)では、
「物語を書く為の配列」として、
固有名詞の短縮入力に力を入れた。
大昔カタナ式で、
「使っていないファンクションキーに固有名詞を入れる」
を提案したけど、全然使っていなかった。
というのも、
「そこまで手を伸ばすことが面倒」に気づいたからである。
だったら4文字5文字なら打ってしまったほうが速い、
という現象が起こってしまっていた。
これが短絡、という現象だと思う。
打ちやすい一続きのフレーズなら、
打ちにくい2打を、
気持ちの上では上回るのだ。
(手の運動としては、負担があるものだろうか。
心的負担が少ないほうが、
結局疲れが少ないんじゃないか、と言う考えだ。
詰まらないデスクワークなんて、
動き回って面白いスポーツより、
100倍疲れるではないか)
ということで、
短縮入力というものに、
僕は懐疑的になってしまったというわけ。
で、どうしたかというと、
次回の編集モードでは、
「無変換キー+なにか」で、
固有名詞が出る定義ができるようにした。
これまでいろいろとショートカットを乗せてきたけど、
それを全部やめて変換キーのみをショートカットにして、
30キー(定義上は全キー)を好きに使って、
という大盤振る舞いをしている。
お勧めは「頭文字で整理する」というやつで、
「し」の位置には「し」で始まる固有名詞、
たとえば「シンイチ」を登録する、
というやつだ。
当然被るので「被ったら隣にする」などで各自対応、
ということにしている。
左親指と一文字の最速ショートカットだが、
これにせよ押しにくい組み合わせがある
(たとえば無変換+Gなど)ので、
それなら打っちゃったほうが速い、
と手が判断する現象もよく起こった。
で、
そもそも配列をブラインドタッチで覚えて自由に打っていく、
という行為自体が、
短絡回路を、
いくつも手の中に作る行為であるんだなあ、
ということに気付く。
よく使う名詞、言い回し、固有名詞、
などが、短絡の代表かな。
これらは一気に入力できるようになっていると思う。
打ちすぎて短縮入力より速いくらいに。
短縮入力をうまく使うには、
「なにを多く入力するか」という感覚が身についていないといけなくて、
その感覚ができるころにはもう手に短絡回路が出来ている、
という逆説もあると思う。
それがよほど運指が悪いなら別だけど、
最近の配列なら、
どれも打ちやすいように設計されている筈で、
と、短縮入力自体が否定される感じ。
(もっとも、日本語に属さない外来語とかは、
短縮入力が活躍した。ベーゼンドルファーとか。
やはり日本語の連接に、配列が強いようにできているからなあ)
飛鳥配列の習得法の、
「ブロック単位で覚えて、
それだけで単語をつくって打っていく」
というやり方は、
短絡回路を、限られた範囲で作っていくやり方だと思う。
つまりは運指とは短絡の繰り返しで、
それこそが、「指がつながる」という感覚に関係しているんじゃないかなあ。
長年Qwertyローマ字をやってきて、
運指が短絡がとても多い人は、
配列変更する必要はないかもしれない。
僕はそこまで極めていなかったし、
Qwertyの非合理的な運指が嫌いだったので、
さっさとこっちに来た。
で、非合理な短絡を手になじませていくくらいなら、
薙刀式の短絡のほうが、
全然よかったと思っている。
短絡回路はいくつあるんだろう。
何千とか何万の単位だと思う。
それらの組み合わせで、億単位とかあるかもしれない。
その短絡回路の数(ネットワーク)を、
練度というのかもしれない。
たとえば、
僕は、「おれ」や「ぼく」を「わたし」よりよく使う。
だから「おれが」「おれの」「おれに」
「ぼくの」「ぼくが」「ぼくに」などが、
「わたし」より有意に速い。
「わたし」より「自分」もよく使うから、
「じぶんが」のほうが「わたし」より速い。
こういうのを練度というのだと思う。
「わたし」はまだ「わ」「た」「し」と打ってしまう。
「自分が」は一単位で打つ。
「自分が言う」「自分のもの」「自分に返ってくる」とかも、
大体一単位のような感覚だ。
短絡の単位はよくわからないが、
「自分が一単位だと思うまで」が一単位で、
それこそが、
「言語思考の単位」になるんじゃないかなあ、
となんとなく考えている。
言うときのボキャブラリーと書くときのボキャブラリーは、
数も単位も決して同じじゃなくて、
それが同一人物のアウトプットのギャップを生んでいるんだろうね。
(結局慣れた配列での、短絡単位での思考が、
その人にとっての一番なんだろうけど)
親指シフトで慣れた人や、
Qwertyローマ字の達人が他にいかないのは、
そういうことなのかもしれないし、
カナ入力に慣れた人がローマ字に戻って、
「脳内ローマ字変換がめんどくさい」というのは、
短絡単位が母音子音の原子単位まで戻ってしまったからだろうと、
僕は解釈している。
(大昔の短絡記憶が戻ってくれば、また感覚は変わってくるだろうと予測する)
2018年05月21日
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