どうして好きになったのか?
と、よく分からない物語では、批判が起こることがある。
これは、裏を返すと、
「全ての登場人物の行動や気持ちには、
納得できる理由が、
(明示にせよ暗示にせよ)なければならない」
ということである。
現実世界には、好きになることに、
明確な理由がないこともある。
気づいたら好きだった、
なんとなく波長があった、
流れで、
なんとなく、
などなどのことが、なくもない。
だが、
物語における進行に、
「なんとなく」はあってはならない。
全てのことには、理由がなければならない。
(繰り返すが、
明示=説明の必要なもの、
暗示=わざわざ説明しなくても明らかなもの、
の二つがある)
これはなぜかというと、
「ストーリーは、誰かによって組み立てられたもの」であり、
「機能の分からない部品はあってはならない」からである。
ストーリーは、だから、
現実の反映よりも、
時計や車の組み立てに似ている。
仮に現実を基にしたなにかであっても、
全ての行動と気持ちには、
劇的な、明確な理由がなければならない。
現実では、なんとなく、だったものだとしても、
強烈で、面白い、理由がなければならない。
それは、観客が面白く感じるからである。
強烈な、凄まじい理由での、
行動や気持ちのほうが、
ふわっとした、なんとなく、の理由での、
それよりも、
圧倒的に面白いのだ。
ただそれだけのことだ。
面白いか面白くないかで、
ストーリーを組み立てるなら、
ふわっとするよりも、
強烈なほうが、
面白いのである。
ここにおいて、
「私はふわっとしたものが作風だから」はない。
それは、
「私は面白いストーリーが書けません」ということの、
言い訳でしかないと僕は思う。
「明確な理由で強く行動して、
明確な理由で返事が返ってきて、
明確な結果が出て、明確な意味がわかる」
ことが出来ないと、
ふわっとした流れしかなくて、
それは(ストーリー的には)意味がわからない作品になる。
それは、ストーリーが書けてないということだ。
絵や音楽がふわっとしていることと、
ストーリーがふわっとしていることは、
全く別の次元の話で、
ストーリーがふわっとしてるのは、
デッサンが狂っててめちゃくちゃな絵や、
出てない音と同じである。
たとえば。
凡人が書くのに難しい題材に、「天才」がある。
天才の発見や発明や知見に、
明確な理由をつけることは、
なかなかに難しいのだ。
「天才がハッと閃いたから」
という理由では曖昧で、
「カッターの発明を考えている時に、
板チョコを見て、
刃が折れて分割できるといい、と閃いた」
(オルファ=折る刃の実話)
のほうが、
圧倒的に面白い物語になるのである。
具体的で、明確な理由があり、
私たちがそれを元に想像することができるからである。
「折れる刃は、板チョコをヒントに生まれたのかあ」
という具体こそが、ストーリーである。
逆に、脚本家とは、
その想像できる具体的な素材を与えるのが、
仕事であると言える。
ようやく本題。
「どうして好きになったのか」の理由。
現実には、好きに理由なんている?
かも知れない。
しかし我々が用意するのは、
三人称形式の物語である。
全てに理由がいるのだ。
そして、
「波長が合ったから」「趣味が合って」
「食事をしたら良かったから」
なんてふわふわしたものよりも、
「偶然同じ服のブランドだった」
「同じリアクションをした」
「外見は好みではないが、マニアックな部分が共通」
などのような、
具体的なきっかけを用意してあげることだ。
これできっかけをつくり、
いくつもいくつも、具体的な場面で、
気持ちが接近していくことを描いていくと良い。
そこに具体的な納得のいく場面があれば、
観客はそこから想像ができる。
ははあん、ちょっと好きになったかも知れない、
自分の好きを自覚して恥ずかしがってる、
好きじゃないと思おうとしている、
などなどだ。
私たちは、その気持ちを想像させる、
具体的手がかりを与えるのが仕事である。
探偵は観客で、私たちは手がかり係だ。
で、それらが全部上手く揃った時、
「いつのまにか好きになっていた」が、
初めて描けたことになる。
「両方とも外見が好みだったから」
でも勿論いいけど、
それじゃあまりにも平凡なことはわかるよね。
普通は、ここに、いくつもの何かをプラスしていく。
「野球を見にきていたら、
同じ選手に同じヤジを浴びせた」
だっていいと思う。
「逆のヤジを浴びせた」でも構わない。
きっかけなんて、いくらでも具体で作れるはずだ。
それによって、相手の内面を明らかにしていく、
具体的で面白い場面があり、
ワンシーンよりか数シーンの積み重ねがあると、
面白いラブストーリーになっていくだろう。
で。
メアリースーってのは、
これらの努力しなければならない所を、
まるで無視しているわけだ。
脚本家として、表現者として、無知無能すぎるのである。
過去の自分を、大いに恥じると良い。
無知の知を得たら、
あとは一つ一つ作っていけば良いだけだ。
2018年05月22日
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