僕はマスコミュニケーションが前提で脚本論を語っている。
映画は多くの観客に見られるから制作費がかけられる。
CMもドラマも同様だ。
だが、動画(=ネットでのもの)というものが出てきてから、
映像、ストーリー、などが、
マスコミュニケーションを前提としなくなってきている。
私的な、という範囲ではなく、
ある特定の範囲(クラスタというのが一般的になったか)
に通用する動画が増えてきた。
バズる、という現象は、
特定クラスタに刺さるものをつくり、
マスコミュニケーションは考えなくて良いような時代が、
広がってきた。
だから、
マスコミュニケーションのものが、
作りがぬるいと、
特定クラスタが喜ぶ動画よりも、
ぬるく感じられることがある。
多くの人は評論家ではないから、
「自分が」面白いか/面白くないかが基準だから、
特定クラスタの動画の方が、
映画やドラマより面白いと感じることが、
増えているのではないか。
勿論、自分が所属してないクラスタのものに関しては、
一切無視だ。
つまり、観客のセグメント化が、
マスコミュニケーションよりも更に進んだものが、
ネットを中心とした動画だ。
そもそもマスコミュニケーションは、
観客をセグメント化することで、
より鋭く深く届くような進化をしてきた。
しかしそれが届く人が狭くなることから、
狭い表現になり、
「全ての人を連れて行く」ことができなくなり、
期待されるリターンが減り、
制作費が減り、
内容がしょぼくなり…
という負のループに陥ってしまっている。
製作時に、「ターゲットは?」
なんていう議論は、愚の骨頂だと僕は考えている。
全員を、そこに、熱狂的に連れていけるのが、
理想のマスコミュニケーションであると考える。
勿論、現実には取りこぼしがある。
ついてこれない人も沢山いる。
アメリカの前向きさに時に疲れることもあるし、
インドの濃さはついていけない人も多いかもだ。
邦画のしみったれた感じは、普段は好きではない。
これを、好みということでバッサリ理解してはいけないと、
僕は考えている。
どんな好みの人でも、
納得がいくものを作れないと、
マスコミュニケーションの意味がないのだと。
あくまで理想論だ。
二次創作中心の人は、
よく「自分の趣味が伝われ」なんて言いかたをする。
それはつまり、クラスタ探しをしているわけだ。
マスコミュニケーションではない、
好みの部分を共有できる人を探すために、
二次創作はされるのかも知れない。
だから逆に、好みじゃなければなんの反応もしない、
(排斥するでもなく、攻撃するでもなく、
ただあるのは知ってるがないものとする)
というのが大人のマナーのようになっていると思う。
このあり方は、動画の方に近いと思う。
特定クラスタがあるかないか、という点においてだ。
僕が作ろうとしているもの、
脚本論でストーリーとは何かについて、
語っていることは、
特定クラスタに関係なく、
全ての人に響くことを考えている。
全ての人というと、そうでない人にとっては強制のような嫌さがある。
「感動しない奴は人でなし」みたいな村八分を感じるだろう。
だからあんまり全ての人に、
みたいな言い方は好きではない。
でも、全員向け、をうまく言える言葉がなかなかないので、
こういう言い方しか思いつかない、
というのがほんとのところ。
日曜日夜7時に持ってこれるもの。
これがマスコミュニケーションだ。
夜10時とか、深夜2時とかは、
特定クラスタのものだ。
鋭さと丸さと、
深さとぬるさと、
多くの人と取りこぼしと、
冷静と情熱と、
信者とアンチと、
ベタと裏切りと、
好みと、好みじゃないけど面白いという感覚と。
それらを自分の作品に、
上手に織り込まなくてはならない。
それらのバランス感覚が優れた人が、
メジャーに躍り出られるのだと思う。
マスコミュニケーションは、ますます辛くなっている。
動画は衰退することはないだろう。
それはつまり、
映像は小さくなってしまったということだ。
まだ大きな映画に僕は希望を見ていたのだが、
邦画はもうしんどいかもなあ。
まあそれでも、創作は続けるべきだ。
みんなが欲しいものは、
やっぱりマスコミュニケーションだと思うので。
(正確にいうと、
マスコミュニケーションのものと、
特定クラスタのもの両方が、
欲しいんじゃないかなあ)
2018年05月25日
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