2018年05月27日

デジタルは人を幸せにしない: マシンを振り切れ

僕がMacのライブ変換をオフにしたのは、
「平均的な文章になってしまう」からである。



当たり前だけど、機械というのは、
それが想定されている使われ方の時に、
最も効率よく力を発揮する。

ライブ変換は、平均的な文章を書くときは効率が良い。
それは、
ビッグデータから変換の平均(確率的に高いもの)を抽出しているからだ。

しかし平均と違う仮名遣いやふりがなをしようと思うと、
途端に機嫌が悪くなる。
この強制力が嫌で僕は自由を選んだ。


想定外の使われ方が、
想定内のスペックに匹敵する保証などない。

たとえばバイクはバックで走ることは想定されていない。

マシンならば物理的なことが制約になるから、
直感的にわかりやすい。
ナイフは刃の方向に切るのであり、横には切れない。

これが、
デジタルだととても分かりにくいんだよね。


もちろん、
ライブ変換はビッグデータの変換データを用いている、
という原理がわかれば対処のしようはある。
「誰が書いたか分かりにくい文章」を書くのに、
ライブ変換を用いる、というのはあり得る。


しかしデジタルは、
それらのバックステージを隠蔽する傾向にある。

そもそもノイマン型が、
変数をレジスタにいれてビット演算しているのだ、
ということをわかってパソコンを使う人は、
ほとんどいないだろう。

でもナイフを使う時には、
硬くて鋭いからその方向に切れる、
ということを理解して使う人がほとんどだ。



つまり、
デジタルはブラックボックス化が、
とても早いのだ。

だから、
クリエイティブなことをやろうとするとき、
マシンの範囲内でものごとを作ってしまいがちになる。


イラレを使う時にベジェでしか作れなかったり、
特色印刷や立体印刷のことを忘れてしまったりする。
フォトショを使う時に、
拡大縮小をなるべく避けてしまうようになる。
より高解像度のデータをあとで集めてパッチするのを嫌がる。
アフターを組む時、
元のイラレを組み直すことを避けるようになる。

あるいは、
qwertyローマ字で打てる範囲の量しか、
文章を書かなくなる。
(手書きなら、文字数だけならもっと書けるスペックが人にはあるよ)
ワードの記法の範囲でしか文章を書かなくなる。


それは、
マシンに使われているのである。


マシンはマシンの範囲でしか力を働かせない。
あなたは、マシンよりも力がある。
あなたの力にふさわしいマシンを組み合わせて、
並の人間にはついてこれない力を発揮させなければならない。

マシンなんかに頼っていると、
その範囲内でおさまる。
いつまでたっても型破りな才能は出てこず、
つまりはマシンにスポイルされるわけだ。


僕が白紙に手書きで書け、
と常々言ってるのは、
結局自分のスペックを、
なるべく型破りに成長させるための方法論でもある。

毎回ワードやパワポで企画書書くやつは、
「今回の企画はワードやパワポでは表現し切れない何かだ」
と気づくことすらできない。

たとえばその企画にふさわしい野球のボールを持参する、
とかそういう型を外した発想を思いつかない。



型破りであることは、
オリジナルであることの条件だ。

あなたは誰にも真似されない、
新しいものをつくらなければならない。

じゃあ、他人と同じ道具で、
他人と同じ範囲内のものをつくるのか?


勿論現代では基礎スキルとしてのデジタルは、
使えて当然だろう。
でも所詮は基礎スキルだ。
道具に詳しくなり、出来ることと出来ないことを極限まで知ることも、
基礎スキルだ。
(多くの人はその基礎スキルの手前で終わる)


その道具を使わずにできること、
その道具じゃできないことを、
増やしていこう。

それはあなた自身からしか出てこないし、
アドビやマックやマイクロソフトからは出てこない。


道具も使えるし、素手でも強い。
そうならなければならない。

作家なんて紙と鉛筆と消しゴムさえあれば生きていける。


デジタルは人を幸せにしない。
道具漬けの、弱い人々を生産する。



先日交番で、
地図アプリを立ち上げて「ここに行きたい」と警官に聞いてるおばさんを見た。
完全にデジタルに振り回されてるやないか。
posted by おおおかとしひこ at 13:26| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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