僕がMacのライブ変換をオフにしたのは、
「平均的な文章になってしまう」からである。
当たり前だけど、機械というのは、
それが想定されている使われ方の時に、
最も効率よく力を発揮する。
ライブ変換は、平均的な文章を書くときは効率が良い。
それは、
ビッグデータから変換の平均(確率的に高いもの)を抽出しているからだ。
しかし平均と違う仮名遣いやふりがなをしようと思うと、
途端に機嫌が悪くなる。
この強制力が嫌で僕は自由を選んだ。
想定外の使われ方が、
想定内のスペックに匹敵する保証などない。
たとえばバイクはバックで走ることは想定されていない。
マシンならば物理的なことが制約になるから、
直感的にわかりやすい。
ナイフは刃の方向に切るのであり、横には切れない。
これが、
デジタルだととても分かりにくいんだよね。
もちろん、
ライブ変換はビッグデータの変換データを用いている、
という原理がわかれば対処のしようはある。
「誰が書いたか分かりにくい文章」を書くのに、
ライブ変換を用いる、というのはあり得る。
しかしデジタルは、
それらのバックステージを隠蔽する傾向にある。
そもそもノイマン型が、
変数をレジスタにいれてビット演算しているのだ、
ということをわかってパソコンを使う人は、
ほとんどいないだろう。
でもナイフを使う時には、
硬くて鋭いからその方向に切れる、
ということを理解して使う人がほとんどだ。
つまり、
デジタルはブラックボックス化が、
とても早いのだ。
だから、
クリエイティブなことをやろうとするとき、
マシンの範囲内でものごとを作ってしまいがちになる。
イラレを使う時にベジェでしか作れなかったり、
特色印刷や立体印刷のことを忘れてしまったりする。
フォトショを使う時に、
拡大縮小をなるべく避けてしまうようになる。
より高解像度のデータをあとで集めてパッチするのを嫌がる。
アフターを組む時、
元のイラレを組み直すことを避けるようになる。
あるいは、
qwertyローマ字で打てる範囲の量しか、
文章を書かなくなる。
(手書きなら、文字数だけならもっと書けるスペックが人にはあるよ)
ワードの記法の範囲でしか文章を書かなくなる。
それは、
マシンに使われているのである。
マシンはマシンの範囲でしか力を働かせない。
あなたは、マシンよりも力がある。
あなたの力にふさわしいマシンを組み合わせて、
並の人間にはついてこれない力を発揮させなければならない。
マシンなんかに頼っていると、
その範囲内でおさまる。
いつまでたっても型破りな才能は出てこず、
つまりはマシンにスポイルされるわけだ。
僕が白紙に手書きで書け、
と常々言ってるのは、
結局自分のスペックを、
なるべく型破りに成長させるための方法論でもある。
毎回ワードやパワポで企画書書くやつは、
「今回の企画はワードやパワポでは表現し切れない何かだ」
と気づくことすらできない。
たとえばその企画にふさわしい野球のボールを持参する、
とかそういう型を外した発想を思いつかない。
型破りであることは、
オリジナルであることの条件だ。
あなたは誰にも真似されない、
新しいものをつくらなければならない。
じゃあ、他人と同じ道具で、
他人と同じ範囲内のものをつくるのか?
勿論現代では基礎スキルとしてのデジタルは、
使えて当然だろう。
でも所詮は基礎スキルだ。
道具に詳しくなり、出来ることと出来ないことを極限まで知ることも、
基礎スキルだ。
(多くの人はその基礎スキルの手前で終わる)
その道具を使わずにできること、
その道具じゃできないことを、
増やしていこう。
それはあなた自身からしか出てこないし、
アドビやマックやマイクロソフトからは出てこない。
道具も使えるし、素手でも強い。
そうならなければならない。
作家なんて紙と鉛筆と消しゴムさえあれば生きていける。
デジタルは人を幸せにしない。
道具漬けの、弱い人々を生産する。
先日交番で、
地図アプリを立ち上げて「ここに行きたい」と警官に聞いてるおばさんを見た。
完全にデジタルに振り回されてるやないか。
2018年05月27日
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