突然だが、
対戦ブームの草分け、スト2で、
「1/255の確率で、通常技が必殺技になる」
というやつがあったことを思い出した。
これ、なんの為にあったのか考えると、
どうやって誘導するのか、
ということを考えるのに役に立つ。
そもそもこのゲームは、通常技と移動のボタンしかついていないから、
何もしらない人が見た時に、
「波動拳や昇竜拳で戦うゲーム」とは分らない。
「大パンチや小キックを当てていくゲーム」
としか見た目からは分らない。
それが1/255で波動拳や竜巻が出るようにすることで、
これはこの世界に入った人の、「認識を変える」ことが出来る。
波動拳や昇竜拳で戦うゲームなのだと。
これは相当頭のいいやり方だと僕は考える。
(これが浸透したスト2ダッシュ以降ではこの機能は削られている。
実際、波動拳こそが通常技だよなこのゲーム。
大足払いのほうがここぞというときの必殺技だよ)
つまり、何か(この場合思ったことを操作するという操作感)
を1/255削ってでも、
「これはこのように楽しむようにできている」
ということを入れ込んでいるのだ。
こういうことを、自分の作品でもできるだろうか、
というのが本題だ。
始まって10分以内にジャンルを確定せよ、
なんてアドバイスがよくある。
スリラーだと思っていたら、
途中から吸血鬼アクションになってしまったり
(フロム・ダスク・ティル・ドーン)
SFだと思っていたら学園ものになってしまったり
(スターシップトゥルーパーズ)
しては、
なんだっけこれ、と混乱してしまう、
ということである。
勿論、この法則を逆用した作品もたくさんあり、
驚かせることに成功しているのもある。
漫画「アイアムアヒーロー」の序盤は、
売れない漫画家の恋愛と幽霊もの?と思わせておいて、
急にゾンビものになる。
この転換はすばらしく面白かった。
(ちょうど一巻のケツがここになるように計算)
しかしそのあとがダラダラしていて、
よかったのはこの転換部であったかもしれないと、
長い目で見れば思える。
この作者のものは、以前のボクシングものでもそうだったが、
本編に入る前のほうが面白かったりする。
これらの例を見てわかる通り、
「途中でジャンルが変わるものに、
驚きや新鮮さを与える」
ということに最初は成功しても、そのあとの最終的成功がほとんどない。
驚きや新鮮さは与えられるが、
それが作品本編の成功に直結していないのだ。
つまりこれらは結局ガワである。
だとすると、まともに本編の面白さで勝負するべきだと思うんだよ。
つまり、
本編はこういう面白さであるから、
それが「誰にでも」楽しめるように、
誘導する導線すらつくっておく、
という丁寧さが、
必要だということ。
で、突然スト2の、1/255必殺技を思いだしたというわけ。
物語において、
そういう初心者でも入っていきやすい仕掛けには、
「観客と近い状況から始める」
「観客が理解できることから始める」
というのはよくある。
あるいはこれじゃ平凡なことしかできないから、
「ぶっ飛んだ世界から始めるには、
観客と同じ目線の、この世界をよく知らないキャラクターが、
この世界を理解するところから始める」
というやり方もある。
(例:マトリックス。
2以降はその視点が削がれているため、失敗していると僕は考える)
つまり漫才でいうところの、
ボケに対するツッコミの役割だ。
いかにボケが素晴らしい世界観や新しさを構築していても、
ふつうのひとがどう思うか、どう感じるべきなのか、
ということをツッコミが距離感を分らせてくれるのだ。
それが異常なのか正常なのか、
それすらわからないものだ。
あなたがずっと浸っているほど、
あなたが個性的であるほど、
ふつうのひとが間違った解釈に至らないように、
つねに誘導を怠らないようにすること。
だから序盤でうまくそれが成功すると、
そのあとはずっと楽しめる、
ということだ。
つまり、なるべく最初に、
この世界の楽しみ方を与える。
チュートリアルやオリエンテーションがしっかりしている、
ということである。
で。
たいていの初心者の場合、
その「与える面白さ」が、
まだ中途半端で、自信が持てていないことが、
そのチュートリアルがないことの原因にもなっていたりする。
だからといって、
普通の人の目線を忘れていい言い訳にはならないと思う。
あの面白きスト2ですら、
そういう配慮があった。
じゃあ、あなたの提供する面白さは、
スト2以上の魅力があるのか、
ということに尽きる。
もっとも、
それが客観的に見えてくるのは、
制作過程のだいぶあとのほうだと思う。
全体がようやく見渡せて、
これこそがこの作品の大事なところで、
これを中心にかんがえるべきなんだな、
ということが自分の腑に落ちないと、
そこまで客観化できないだろう。
優秀な編集者には、
そこを上手にみて、誘導するような、
ボクサーのセコンドのような技能が必要だが、
その能力が必ずあると期待するべきではない。
他人の能力は、そこまで優秀ではないと割り切って、
自分の客観力を鍛えたうえで、参考にするべきだ。
「この人はちゃんと客観的である」かどうか判断するのは、
自分も客観的になっていないとわからないものである。
自分が客観力がなくなるとわかっているなら、
そういう人に協力してもらうことが考えられるが、
その人がとても優秀な誘導家であるとは限らないことは、
落ち着いて考えておくべきだろう。
話がそれた。
ということで、
自分の作品を、そこまで客観視することは、
なかなかに難しい。
しかし、
核の部分に関しては、
あなた自身も自覚があるはずだ。
どうでもいい部分に関してはまあいいけど、
自分の作品の核になる部分だけは、
綿密に考えて考えすぎるということはない。
考えすぎて、あれ?これたいして面白くないぞ、
に気づいてしまうという絶望も、
まれによくある。
初心者はそれに気づきたくないから、
分析→自信喪失のプロセスを避けたがる傾向にある。
このときやることは、
さらに盛って自分をごまかすことではなく、
「その山の高さでも、ふつうの人がちゃんと登れるように配慮する」
ということではないかと思う。
ややこしく難しいことにするのは、
誰にでもできる。
一見高い山に見せるのはわりと簡単だ。
でも、
「どんな高い山でも、
段階を踏めば、だれでもたどり着けるようにする」
ということがちゃんとできるほうが優秀だ。
今回の山が里山レベルだとしても、
それはちゃんとやったほうが、
作りがしっかり丁寧になっているだけで、
面白味がちゃんと伝わるのである。
次の山をもうちょっと高く作れるようにするだけのことである。
この話は、どこがおもしろいんだっけ?
反語ではなく、疑問形で見ていこう。
そうすると、どうすればそこに誘導できるのか、
用意するべきものが変わってくる。
山を盛って高く見せようとするのではなく、
地面からの登山路をどう作るかを考えることに時間を費やすほうが、
最終的にはいいものになるかもしれない。
ほとんどの人は、エベレストの南西壁なんか登らない。
ふつうの山の、ふつうの頂上に、
わかりやすく楽に登れるほうが楽しい。
僕は「浅草花やしき」のジェットコースターを尊敬している。
モノが小さいのに、とてもいい。
あれを体感すると、でかさを誇るジェットコースターがバカに見える。
(残念ながら、「でかさで宣伝しないと、わからない」
というバカな宣伝部がいるわけだ。
花やしきのそれのすばらしさは、
下町の洗濯物をくぐる部分だ。
自分の知っているものとの比較で、人は恐怖を感じる。
それが上手い。
恐怖とは絶対(数値)ではなく、相対できまるのだ)
2018年05月28日
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