2018年05月30日

なにも真実を語る必要はない

物語はフィクションである。
それをすぐに忘れてしまう。

真実を語る必要はない。
わかりにくい真実を語るくらいなら、
わかりやすい架空の例を与えるのが物語という作法である。


「自分の経験したこと」を書く場合、
この罠にはまってしまうことがよくある。

正確に再現することでリアリティが増すと、
自分が思い込んでしまうのだ。

自分の経験と違うと、違和感があるということもある。
体験と違うことを書くと、虚偽の報告のような気がしてしまう。
その分真実から遠ざかる感覚になってしまう。

で。
赤裸々に自分の経験をあらわにすることが、
あなたのするべきことか?

そうではない。
物語はフィクションである。
より分かりやすく、強い例が捏造できるなら、
そっちのほうがいいのだ。

フィクションはレポートではない。
極端な例をもって、
一般化を行う。

例は極端であればあるほど人目をひく。
つまり、キャラが濃くなり、目立つ。

そして極端であるだけに、
「自分と違うが、その一部には、
自分と共通する点があるなあ」
と思ってもらえる。

それが感情移入の原動力であった。


主人公は強烈に。
シチュエーションは強烈に。
事件は極端に。
キャラクターも極端に。
展開も上から下までぐるりと回るように。

そのように、整理されているべきものである。


自分の体験談を書くことと、
物語を書くことは違う。

そうわかっていても、
「それは私の書きたいことではない」
「それは今までの経験とは違う」
という抵抗感があるとき、
そのことを本当には理解していない。

その経験から抽出できたなにかのエッセンスが、
フィクションの極端なものの中心にいるはずなのに。

つまり、
あなたの経験をそのまま書き写すのは、楷書でしかない。
実戦は行書だ。

「滑らない話」がドキュメンタリーだと思っている人は素人だ。
それを元に話芸のレベルまで練り上げた、
あれはネタの披露番組である。

田村のホームレスは、どこまでほんとうか分からないが、
元ネタ的体験があったのはたしかだろうが。

つまり、
ネタのために、いろいろな体験をすることはとても良いことだ。

だが、それをそのまま書くやつは、
フィクションがなにか、全然わかっていないレベルである。
posted by おおおかとしひこ at 12:40| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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