物語はフィクションである。
それをすぐに忘れてしまう。
真実を語る必要はない。
わかりにくい真実を語るくらいなら、
わかりやすい架空の例を与えるのが物語という作法である。
「自分の経験したこと」を書く場合、
この罠にはまってしまうことがよくある。
正確に再現することでリアリティが増すと、
自分が思い込んでしまうのだ。
自分の経験と違うと、違和感があるということもある。
体験と違うことを書くと、虚偽の報告のような気がしてしまう。
その分真実から遠ざかる感覚になってしまう。
で。
赤裸々に自分の経験をあらわにすることが、
あなたのするべきことか?
そうではない。
物語はフィクションである。
より分かりやすく、強い例が捏造できるなら、
そっちのほうがいいのだ。
フィクションはレポートではない。
極端な例をもって、
一般化を行う。
例は極端であればあるほど人目をひく。
つまり、キャラが濃くなり、目立つ。
そして極端であるだけに、
「自分と違うが、その一部には、
自分と共通する点があるなあ」
と思ってもらえる。
それが感情移入の原動力であった。
主人公は強烈に。
シチュエーションは強烈に。
事件は極端に。
キャラクターも極端に。
展開も上から下までぐるりと回るように。
そのように、整理されているべきものである。
自分の体験談を書くことと、
物語を書くことは違う。
そうわかっていても、
「それは私の書きたいことではない」
「それは今までの経験とは違う」
という抵抗感があるとき、
そのことを本当には理解していない。
その経験から抽出できたなにかのエッセンスが、
フィクションの極端なものの中心にいるはずなのに。
つまり、
あなたの経験をそのまま書き写すのは、楷書でしかない。
実戦は行書だ。
「滑らない話」がドキュメンタリーだと思っている人は素人だ。
それを元に話芸のレベルまで練り上げた、
あれはネタの披露番組である。
田村のホームレスは、どこまでほんとうか分からないが、
元ネタ的体験があったのはたしかだろうが。
つまり、
ネタのために、いろいろな体験をすることはとても良いことだ。
だが、それをそのまま書くやつは、
フィクションがなにか、全然わかっていないレベルである。
2018年05月30日
この記事へのコメント
コメントを書く